先般「江戸の屋台めし」について書かせていただいた。中でも四大屋台めしといわれ人気を誇ったのが、すし・天ぷら・そば・ウナギであった。このうち天ぷらだけは、南蛮由来の食べ物とされる。1960年に世界初の天ぷら粉を発売した昭和産業によると、天ぷらの語源は、カトリックの四季の斎日を表すポルトガル語「temporas(テンポーラ)」説が有力とか。この期間は肉食を禁じたため、代わりに野菜や魚に衣をつけて揚げた、フリッターのような物を食したそうだ。
江戸時代、菜種の搾油技術が発達する前、油は高価で食用より灯明用として使われたので、家庭で揚げ物をする習慣はなく、外食かテイクアウトの2択のみ。天ぷらは江戸前の魚介類をおいしく食せる方法だが、火事が多い江戸では屋外営業が禁止され、天ぷら屋は屋台として登場。串に刺し、つゆと大根おろしをつけて食すスタイルで、1串4文くらいとお手ごろ価格で庶民から人気を博した。
人気の業態は必ず店舗数が増える。現代の牛丼チェーン店のごとく、江戸の町にも多くの天ぷら屋台が出現したようだ。そこで、差別化が必要になる。イマドキ人気の高級ハンバーガーのように、高級化路線が進んだらしい。質の高いゴマ油「本ゴマ」にこだわり、天ダネにもこだわって名をはせた日本橋の「吉兵衛」など、天ぷら屋台の名店も現れるようになった。
江戸時代後期になると、ますます競争が激化。吉兵衛に対抗して売り出されたのが「金ぷら」なのだとか。その調理法の詳細は記録が残されていないため、どんな料理だったのかは諸説あるが、卵の黄身を入れた衣で黄金色に仕上げた天ぷらという説が有力だ。ちなみに、小麦粉の代わりにそば粉を使ったとする説や、つばき油で揚げたとする説も。
ただ、絵は残っている。「新版御府内遊興名物案内双六(すごろく)」という、江戸時代後期の絵双六がある。江戸名物とされた食べ物が並んだ双六だ。料亭やそば屋、ウナギめし、ドジョウ、いなりずし、団子、田舎汁粉など、当時評判を呼んでいたさまざまな名物料理が記されている中、「すわ町 金ぷら」の文字と共に描かれているのは、黄金色の天ぷら。
はやりの料理屋、すし屋、そば屋などをランキングで紹介した「江戸流行細撰記」には、25軒もの金ぷら屋の名が掲載されており、「御ひとりまへ百文より五十六文」と記されている。屋台の1串4文とは大違い。卵は1個20文程度と、かけそば1杯16文より高価だったそうだ。余談だが、卵白のみを使い、白っぽく揚げた「銀ぷら」もあったそうだが、「金」に比べインパクトが弱かったのか、あまりウケなかったようだ。
先日、筆者が役員を務めるお弁当製造販売会社の総料理長が、小さなエビ天を載せた天重を試作してくれた。ずいぶん黄色っぽい衣だなぁと思ったら、卵黄を混ぜた黄身衣で揚げたという。金ぷらってつまり、黄身揚げだったんだ! 意外にも身近に江戸を感じて、うれしい筆者であった。
※宿泊料飲施設ジャーナリスト。数多くの取材経験を生かし、旅館・ホテル、レストランのプロデュースやメニュー開発、ホスピタリティ研修なども手掛ける。