私の従兄弟(いとこ)の長男が、20年ほど前に被差別部落の女性と結婚することとなった。うれしいことにわが一族から反対者は出なかった。それでも、陰口をたたく人が周囲に存在した。部落差別は許されないと認識されているのは表面上のこと、いざ結婚となると差別心を口にする者が出現する。本当に情けない話だが、近代日本にあっても差別はゼロではない。
私は朝鮮大学校の関係者と交流があるが、よく「差別された悲しい話」を耳にする。私は大阪南部の生まれ、近くに被差別部落があり、多くの朝鮮人が住んでいた。小学校、中学校、高校へ進んでも、いつも彼らが友だちであった。差別心など芽生えず、仲良しであった。かかる環境で育った私たちは、何の偏見も持たず差別に対しては憤りを覚えていた。「差別された悲しい話」は、日本人の度量のなさと偏見を物語り、法の下の平等を保障する憲法第14条を理解していない証左だ。
1968年、私は米国のミシガン州にある州立東ミシガン大に留学した。多様な人種社会で差別など存在しないかに見えたが、試合で各地に行くと「ジャップ」(日本人野郎)と野次られた。黄色人種としての差別を体験した私は、「社会的身分により差別されない」とある憲法第14条を反芻(はんすう)したものだ。差別される側に立てば、どれだけ悲しいか、その理不尽さに泣かされる。私たち近代人は、日本から部落差別にとどまらず、あらゆる差別をなくし、真の人種が守られる社会を構築せねばならない。そのために国はもちろんのこと、地方自治体にあっても人権中心主義を貫いてほしい。外国人労働者が増加する一方だから、私たちは常に「人権」に配慮せねばならない。
このように差別や人権について記述してきた背景には、今年が被差別部落の人たちが1922年に結成した「水平社」の創立100周年を迎えた歴史がある。部落解放同盟中央本部の組坂繁之執行委員長とは、私が衆議院に議席をいただいた1996年からの交流がある。「水平社」の流れを受け継ぐ部落解放同盟にとって、果たして運動の成果を上げ得たのだろうか。私自身、「人権教育・啓発推進法」の成立に奔走した。人権教育や啓発に関する国や自治体、国民の責務を定めた法律が、2000年に施行された。組坂委員長や解放同盟の皆さんに喜ばれたが、国際化する日本にあっては必要な法律であったと述懐する。
2002年、同和対策事業の根拠法でもあった「同和対策事業特別措置法」が失効した。被差別部落の人たちは、差別や偏見によって貧困と不平等と闘わねばならなかったが、この措置法によって各地で改良住宅が建設されたり区画整理が進み、住環境の改善が図られ近代化に対応できた。1969年に施行された措置法だったが、逆差別を生んだり、差別意識の解消に役立ったとはいえなかった。で、「人権教育・啓発推進法」が必要となったと私は捉えている。
そして、2016年に「部落差別解消推進法」が施行された。まだまだ部落差別解消の理念や相談体制の充実が見られなかったために、この法律が求められたのである。この法律を成立させるために、私も協力をさせていただいた。いつまでたっても、日本人は差別意識や偏見を持つために、かかる法律が必要なのは残念でならないが、現実なのだ。
「水平社」の宣言の最後の1行に「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とうたわれている。平等と人権に対する希望だと私は解している。だが、恥ずべきことに、今もネット上での差別が氾濫中である。私たちが、差別や偏見をなくすべく立法化した法が、国民の胸に届いていない現状を悲しむしかないが、人権侵害については強く対応すべきである。
差別や偏見について、各教育機関で正しく指導せねばならない。各自治体は、教育委員会に強く要望を出し、学校および各家庭でも人権教育を徹底させるようにすべきである。ネットを用いて新しい人権侵害、差別が存続する実態を何とかしたい。