趣味を問われた際、「読書」と応える人が多い。私もそのうちの1人で、本がないと落ち着かない性格である。毎朝、新聞の新刊図書の広告に目を配る。毎月、数回、本屋さんに注文する。興味のある本、専門書、話題の本、私の場合は多様だが、活字人間にとっては書物は“恋人”であろう。その“恋人”をいかにして手中にするか、それは児童書から始まると私は思う。絵本からのスタートが動機付けとなり、本好きになる。
だが、スマホの発達によって読書人が減少している様子は、各地の本屋さんの店じまいの情報でよく理解できる。AIの発達もあり、情報機器が百科事典となっている。物語を書物から、読んで楽しむ行為もスマホでもできる。電子出版も増えたために、紙の書物は機器に押されつつあるようだ。しかし、図書館に行って、多くの本から読みたくなる本を探す楽しみは大きい。どの小学校でも図書館があるのだから、図書館通いが可能である。その図書館で親切に、本の説明をしてくれる学校司書が存在しておれば、子どもたちが本好きになるに違いない。
2015年に施行された改正学校図書館法は、学校司書の配置を促している。残念なことに配置は義務ではなく努力義務のため、読売新聞の調査では小中高校で6割台しか学校司書が置かれていないという。子どもの読書環境に格差が生じて当然であり、自治体・教育委員会の図書に関する情熱差が読み取れる。政府は、毎年243億円の財政措置を取り、地方交付税交付金として各自治体に学校図書のために配分している。だが、交付金の使途に関しては、各自治体の裁量に任されていて、他の目的のために使われたりもする。
各自治体からすれば十分な交付金ならともかく、学校図書の雇用のために使えないのが実情のようだ。
また、小中高校のうち、小学校か中学校に限定して学校司書を置く自治体もあるらしいが、本好きの子どもを育成するとしたなら、交付金だけを頼りにするのではなく、教育委員会がきちんと予算を獲得して学校司書を配置してほしいと願う。
行政が学校図書館の重要性を理解しているなら、予算措置を取るだろうが、一般市民には見えない分野だけにカットされると容易に想像することができる。
おおむね、努力義務をうたう法律は、「どちらでもいいよ」と言っているのと同義語と解していい。選挙民は、教育に熱心で、各学校に司書を配置する首長や、主張する議員に投票すべきである。
わが国が文化国家であるならば、活字文化が瀕死の状態に陥るかもしれない状況下では学校図書館を大切にすべきである。政府も自治体への交付金を司書限定で支出し、足りない分は各自治体が補填(ほてん)してほしい。
往々にして、学校司書の待遇はよくなく、正規職員としての雇用は多くないという。将来の文化人を育成する仕事こそが学校司書。改正学校図書館法に基づいて、どの学校にも司書を置いてほしい。
正規職員として各自治体は雇用すべきだ。この学校司書の人間性に引かれて図書館に足を運ぶ児童・生徒もいる。ICT機器の導入に金がかかりすぎて、学校司書にまで金が回らないというのは情けない。
米国の初等教育機関の図書館は充実していた。きちんと学校司書が配置されていて、さまざまな企画をも立てていた。ミシガン州の大学留学中だった私に「おりがみの指導ができますか」の打診があった。「できます」と応えると、小学校図書館での「おりがみ教室」だった。司書たちは、子どもたちが図書館に足を運ばせる企画を立てて、本のある環境を好きにする努力をされていたのには感心した。
学校司書を雇用できないのであれば、ボランティアを募集してでも図書館に説明役たる人材を置くべきである。学校司書を配置する自治体、何の手も打たず司書を置かない自治体、この格差は大きい。人づくりの場にあって、心臓部の図書館に司書がいないなんて許しがたい。