激動の2022の締めはおいしい話をお届けしたい。
久々の大分出張。古民家再生事業の現地打ち合わせが終わったので、同行したメンバーからの「東京ではお目にかかれないものをよろしくお願いします」との要望もあり、小中高の9年間を過ごした別府温泉に足を延ばした。
やはりまずは温泉。普通に街並みの用水路から温泉の湯気が立ち上る光景を目にしながら目的の宿へ。先代が中国から輸入したという6畳を超える大きさの一枚岩の露天浴槽に浸り疲れを癒やす。
そして夕食。「関アジ、関サバ、関ブリ」に始まり、「ハモ刺し」で一服。大分県でしか食べることができない「トラフグの肝あえ」にたどり着いたころにはみんなの笑顔があふれていた。「肝あえ」とは、「養殖トラフグ」の肝とさし身と湯引きと皮を熟成カボスのポンズで和え小ネギをあしらったもの。脂ののった真冬にとれたトラフグの肝を湯がいたときに浮かんでくる油を冷凍保存し、適宜肝あえに加えることによりうまみと深みを出しているので、厳冬期と遜色ないコクのある肝あえに出会えるらしい。フグのうまみが凝縮されたポンズを久住高原で醸される「千羽鶴」の熱燗にひとたらしした締め酒もまた格別だった。
翌日の帰路、ふと、大分県出身の政治家で美食家としても知られた木下謙次郎のことを思い出した。
彼のその著書「美味求真(びみきゅうしん)」は、日本で初めて食を論じた随筆として知られている。そこには、世界中のさまざまな料理のことやカラスや昆虫、人肉までをも食べることについて書かれている。地元大分県についても山海の幸に恵まれたところであり、日出(ひじ)の城下カレイ、日田(ひた)のアユ、安心院(あじむ)のスッポン、姫島近海のフグが紹介されている。
また、当時の日本料理については「小細工と粉飾で外観を飾る。鰹(かつお)節や砂糖のような補助味により味を加えようとし、かえって本来の味を乱す。味は活き物だ、物質と黄金だけで成るものではない」と厳しく指摘されている。
時は大正末期から昭和にかけての話だが、その内容は「食通のバイブル」と言われるのにふさわしく時の流れに関係なく、全ての料理に通じるものだ。
その言わんとするところは、時や場所に左右されることなく通用する「真の基本」を身に付け、その基本を逸脱することなく努力と研さんを積み上げてゆくことこそが大切だということではないだろうか。そうすることで、迷ったり壁に突き当たったときには、「真の基本を身に付けたときの心」に帰ることが可能となり先に進むことができるというものだ。
こう考えてくると料理のみならず実生活のさまざまな局面にも生かすことができる指摘ではないか。
さまざまなことが身の回りで起こった「寅年」も終わろうとしている。来るべき「卯年」に向けた心の備えとして「自身の基本」を再確認してみてはいかがだろうか。
(EHS研究所会長)