「ほんとの空」がある山と川の城下町
東北本線の福島と郡山の中ほどに二本松という町がある。南北朝時代に奥州探題が置かれ、近世は白河から移った丹羽氏が治めた10万石の城下町である。
みごとな高石垣と箕輪門を残す霞ヶ城下では、戊辰戦争で藩士たちの出陣の後を守って戦死した少年16名の悲話が胸を打つ。駅前でその少年隊士像とともに目をひいたのが「ほんとの空」と題する女性像だ。
「東京には空がない、ほんとの空は阿多多羅山の上の青い空」と嘆いた詩人・彫刻家の高村光太郎の妻・智恵子の姿で、ここ二本松が生まれ故郷である。
駅前からバスで旧奥州街道をたどって10分ほど。千本格子の風雅な智恵子の生家の長沼家があった。1階には屋号・米屋ののれん、軒下には杉玉が下がり、清酒「花霞」の看板が掛かる。
裏庭に回って中に入ると敷地560坪、部屋数15、酒蔵8棟の広壮な商家。この地方随一の造り酒屋で生まれ育った智恵子は、明治後期に東京の日本女子大学校へ進学。卒業後、両親の反対を押し切って油絵画家を目指して東京に留まる。大正3年、熱愛の末に29歳で光太郎と暮らして、ともに芸術の道に励んだ。
裏庭に立つ智恵子記念館には愛と芸術を追い求めた生涯を紹介。33歳の時に父を亡くし、44歳の時に破産して一家は離散。その2年後から精神が失調し始めたとある。光太郎の強い愛に支えられるも心と体の病が進む。油絵とともに最期の1~2年、病室で熱中した紙絵の作品も多数あった。
遊び回った生家の裏山の鞍石山にはふるさと創生事業で整備された「智恵子の杜公園」がある。『樹下の二人』の詩碑には「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川…ここはあなたの生まれたふるさと」とあった。
新緑の季節に訪ねた智恵子のふるさとへ、思いを重ねた光太郎の優しさがこもる。至純の愛を貫き通した二人が寄り添ってここから山と川と空を眺めた姿が浮かんだ。
(旅行作家)
●二本松市観光課TEL0243(55)5122