歴史と文化の香り高い美しい古都
東に青野山、西に城山。間を水清い津和野川が流れている。それに沿って赤い石州瓦の家々が連なる津和野は「山陰の小京都」と呼ばれる町である。
鎌倉末期の吉見氏の築城に始まり、江戸時代は亀井氏4万3千石の城下町として栄えた。その面影は立派な屋敷門と白壁・なまこ壁の土塀を構えた家老多胡家や白壁に格子窓の藩校養老館などイチョウ並木の殿町通りに色濃く残る。
鯉が泳ぎ、初夏に花菖蒲が咲く掘割を前にする養老館は、英明な8代藩主亀井矩賢が開設した藩校で、漢学、医学、礼学、数学、兵学、国学など広く教えた。
学んだ多くの俊秀の一人が軍医総監と文豪の二つの位を極めた森鷗外。文久2年(1862)、藩典医の森家の長男として津和野に生まれ、7歳から10歳まで養老館に通い、『四書』『五経』『史記』などを復読。内容は自力で理解できたという。
10歳半ば、父とともに上京。藩主亀井氏の下屋敷に住むが、翌年、祖母、母、弟妹も出郷し、家族そろった東京暮らしが始まる。
一家は離れたが鷗外旧宅(生家)が遺され、後年、ガラス張りの近代的な森鷗外記念館が建てられた。
この生家から藩校までの通学路で森林太郎(鷗外)少年が見た津和野川や優雅な鷺舞の八坂神社、朱塗りの鮮やかな太鼓谷稲成神社、家老多胡家などが今も変わりない姿を留めている。
これらの風物はドイツ留学でも東京や小倉での暮らしでも、幼少の10余年間の津和野の記憶は鮮明で、寄せる思いも強かった。
組織と個人、伝統と改革、西欧と日本、これらのはざまに悩みながら軍医と作家の二つの人生を生きた鷗外は、津和野に一度も帰ることはなかった。だが60歳で亡くなる前に「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」。肩書など1字も付け加えないことを遺言。永明寺にはその通りの「森林太郎墓」の墓碑が立つ。高潔な人格と故郷への思いに頭を下げた。
(旅行作家)
●津和野町観光協会TEL0856(72)1771