水と緑が光る詩のある町
赤城山南西麓、利根川の東岸にひらけた前橋は、上野国府、城下町、製糸業を礎に発展。今は人口33万余の県都として政治、経済、文化の中心をなしている。
駅前には枝ぶりの大きなケヤキ並木、街中には水量豊かな広瀬川。河畔に立つ詩碑が語るように、ここは大正・昭和の詩人・萩原朔太郎のふるさとである。
朔太郎が萩原家の長男に生まれたのは明治19年(1886)。裕福な開業医の家で、地元の幼稚園、小学校、中学校に通い、広瀬川や赤城山、前橋公園などに親しみ、詩歌にひかれる。高校、大学は熊本、岡山、東京、京都など転々とした。
39歳の時、移住の東京で出版した『純情小曲集』の前文に「郷土!いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。悲しき郷土よ。人々は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでいた」とあり、無職、変人、あわれな詩人、背後から唾をかけたと書いている。
無職無名の時代、父や実家、故郷に対して屈折した思いを抱きながら、56歳の人生のうち40年間を前橋で過ごした。前橋での書斎や離れ座敷、土蔵など平成29年に広瀬川べりに再移築され萩原朔太郎記念館としてオープンした。
向かい側に立つ和服姿の朔太郎像や朔太郎を中心に山村暮鳥、萩原恭次郎らの文学者の業績を展示する前橋文学館と併せて、ここは朔太郎の聖地になった。
「広瀬川白く流れたり、時さればみな幻想は消えゆかん」と詠った広瀬川、「いつも人気なき椅子にもたれた」前橋公園、「常に一人行きて瞑想に耽った」小出松林など望郷の思いは強い。
文学館から流れを遡って広瀬川詩碑へ、さらに国道17号を南に歩いて生家跡や初恋の人と言われる馬場ナカの家を探した。
父や故郷に対する反発や敵対、嫌悪。これが朔太郎の名詩の原動力になった? 文学や芸術とは、ふるさととは何なのだろうと思う旅になった。(旅行作家)
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