菅義偉官房長官は訪日外国人客の受け入れ態勢を強化するため、新たな経済対策に盛り込む融資制度などを活用し、「各地に世界レベルの高級ホテルを50カ所程度新設することをめざす」と述べた。
「日本にはラグジュアリーホテルが足りない」と声高に論ずる識者が存在することは知っているし、「外国人富裕層にもっとお金を落としてもらうべきだ」との主張には理解できる部分もある。しかし、地方の実情やこれまでの経緯を無視して新しい施策を唐突かつ盲目的に取り入れるその姿勢には疑問を持たざるを得ない。
政府は訪日外国人客を2030年に6千万人にする目標を掲げる。外国人客は13年に初めて年間1千万人に達し、18年には3千万人を超えた。京都などの有名観光地では観光客が飽和状態に達し、オーバーツーリズムの問題も浮上している中、計画達成の足を引っ張りつつあるのはこの好況下でも観光客減少に苦しむ地方の観光地だ。国は観光地が魅力を喪失し衰退している原因をWi-Fiや外国語表示の整備などのインフラ面の遅れ、労働力不足、経営者の知識不足による生産性の低さなどに見出そうとしてきた。しかし、これまで地方の観光地に対して行ってきた悪夢のような政策についてはすっかり忘れてしまっているようだ。
かつて、国や地方公共団体は地方に国民が気軽に利用できる宿泊施設が足りないと公共の宿を乱立させた。その主体はかんぽの宿やグリーンピア、国民休暇村などを代表に、ほぼすべての省庁がそれぞれ野放図に宿泊施設を展開したせいで、ピーク時には日本の客室の2割以上を公営宿泊施設が占めるまでになった。公務員共済、教職員共済などの組合も宿泊施設を数多く展開し、本来は組合員のみの利用のはずが程なく一般にも販売されるようになった。さらには今では悪名高きリゾート法により、まるで需要の見込めない僻地に非効率な過剰設備を持った画一的なリゾート施設が建設された。ご承知の通りそれらは税金や公的資金、積立金などで無尽蔵に補填され、スタッフの給与水準や維持費が高いにもかかわらず激安の宿泊料金で集客したことで地域の経済を狂わせ、あっという間に地方を荒廃させてしまった。
本来であれば単価2~3万円の旅館ホテルに相当する料理や設備を1万円以下で販売したりしたのだから公共の宿は各地で大人気となったが、その影響をもろに受けたのは地方の観光地や温泉地に立地していた宿泊施設だ。もともと利益率の低い業界において価格破壊者が大量に出現したことで全国の民間宿泊施設は稼働率が減少し一気に淘汰された。かろうじて生き残った宿も不当ともいえる価格競争に巻き込まれ利益率が急減し、本来行うはずだった設備投資をあきらめたため、高付加価値を維持することができなくなった。地域全体の投資が少なくなったことで、本来であれば高級リゾートを目指せたはずの地域の宿泊施設は公共施設並の価格でダンピング販売することが主体となった。バブル期を挟んだにもかかわらず、宿泊施設の宿泊単価がほとんど上昇しなかった大きな要因がここにある。
バブル崩壊後、公共の宿は補助金漬けの放漫経営が社会問題化し、各地で営業中止や民間譲渡が進んだ。しかし時すでに遅く、民間の宿泊施設は設備投資もままならないまま老朽化した設備と削減された雇用で細々と生き残るだけの存在になってしまった。それを今頃になって高級ホテル不足だとうそぶく発言に多くの関係者は愕然としたのだ。高級ホテルをダンピングに追い込み疲弊させたのはどこの誰だ。いったいどの口が言うのか。と。
それだけではない。その後の消防法の度重なる改正、耐震診断や補強の義務付け、民泊解禁などの政策に振り回された結果、廃業する地方の宿泊施設は今でも増え続けているのが現実だ。にもかかわらず地方の宿泊施設に見切りをつけて国内や外資のチェーンホテルに地方を開発させようとする今回の発表には「マッチポンプではないか」と怒りをあらわにする関係者も多い。
例えば国が「国民に自動車をもっと普及させたい」と公営の自動車会社をつくり、その会社に巨額の補助金を出して、トヨタの3分の1の価格で売れる車を販売し大ヒットさせたら日本経済にどれほど負の影響が生じるかある程度想像はつくだろう。それどころかダンピングに巻き込まれたトヨタが販売不振で高級車から撤退し、やむを得ず大衆車専売メーカーになった後で、国が「日本には高級車が少ないので補助金出してベンツの工場を誘致します」などと言い始めたら自動車関係者はきっと激怒することだろう。今回の菅官房長官の発言はそのくらい違和感のある発言なのだ。
もちろん、地方に高級ホテルが少ないという分析に異論はない。しかし現時点でも地方における高級ホテル、さらにラグジュアリーと呼ばれる最高級ジャンルの宿泊施設は決して皆無ではないし、そしてそのほとんどが地元資本によるものであることも忘れてはならない。ラグジュアリーに不可欠な地域の空気感や体験素材を提供できるのは地元を知り尽くした人でなければならないからだ。単に外資チェーンホテルがプロデューサーとマネージャーを派遣したところで真のラグジュアリーは成立するものではない。今回の発表には、ラグジュアリーの前提となるその視点すら感じることはできない。人材不足、資金不足で高級グレードを維持できなくなった宿泊施設を後押しし、ラグジュアリーリゾートに向けて地域を再構築する方がより主旨に合致する。
最後に、インバウンドを語る上でもう一つ忘れてはならないのは、現在のインバウンドブームの大きな要因は日本の物価安であるということだ。欧米からの距離が遠く、そもそも航空券代でハンデを持つ日本に欧米からの観光客が押し寄せ、アジアからも伸び続けるのは「日本が安い」からだ。ランチに5ドルも用意すれば衛生的で店員がうやうやしく応対してくれるチェーン店がいくらでも探せる。100ドルも出せば首都のターミナル駅から徒歩圏に新築に近くサービス満点のビジネスホテルがある。これは先進国では異常と言っても良いレベルの廉売だ。ニューヨークやパリの中心部で、日本と同レベルの食事や宿泊を体験しようと思ったら食事では20ドル、宿泊なら300ドルは覚悟しなければならない。日本並みの予算では身の危険を感じるレベルの選択肢しか残らないはずだ。日本人は中国人の「爆買い」を喜ぶが、それは単に日本国内の生活必需品の物価が品質の割に安いからに過ぎない。
輸出最優先、国を挙げてのディスカウントセールを行っている国において、外国人向けの高価格ラグジュアリーホテルが必要だという発想は、カリブ海やアフリカで低時給のスタッフが大勢でセレブをもてなしていた前時代的な欧米人の考えるリゾート地を想起させる。日本に本当にラグジュアリーを根付かせるには、まずは物価が高くても旅行者が集まるシンガポールやドバイのような現代的なラグジュアリーリゾートエリアを構築する必要があるはずだ。そのためにはハブ空港やコンベンション施設などのインフラも一体になってエリアデザインを行うのが定石である中で、そのきっかけとなるIRすら国内数カ所にしか作れないのが現状だ。50ものラグジュアリーホテルを各地に作ればセレブ外国人が日本に殺到して周遊してくれるという単純で能天気な図式は現実的ではないのだ。
成長戦略がことごとく行き詰まり、アベノミクスの成功事例のシンボルであったインバウンドの成長にもブレーキがかかりはじめたと感じる国民も増えてきた。ここで必要なのはこれまでの政策の失敗の歴史を振り返り、地方が本来持っていた観光力を再生させるための施策であり、派手なアドバルーンで政策の失敗を糊塗するものであってはならない。
(日本旅館協会 副会長)