
10年に一度の寒波が来ようという日に、岐阜県奥飛騨温泉郷を目指しました。
新宿バスタから4時間半で平湯バスターミナルに到着。そこからまたバスで移動という、家から温泉宿まで、約6時間の長旅でした。
奥飛騨温泉郷には平湯、福地、新平湯、新穂高、栃尾の五つの温泉地が点在しています。今回滞在した福地温泉は小さな宿が11軒あるのみの静かな温泉地。とりわけ地域の風土が色濃く残っています。
お世話になった「湯元 長座」のいろりから漂うまきの匂いと、太い柱とはり……。雪深い地域にやってきたのだと、旅情をかき立てられました。
女将の小瀬礼子さんが、「月曜の今日は『あつ鍋の日』です。19時半から21時まで地酒と鍋をふるまっていますので、ぜひご参加ください」と案内してくださいました。
すでに「長座」の夕食の自家製五平餅や飛騨の揚げ漬け、飛騨牛のすき焼きなどで大満腹でしたが、せっかくなので20時過ぎに訪ねてみました。
そこは「舎湯 やどり湯」といって、集落の集会場のような場所でした。古民家で、20畳ほどの座敷の真ん中にあるいろりを囲んで、7~8人の男女がおしゃべりしています。
参加者の中に作務衣(さむえ)姿の人がおり、その言動から、宿のオーナーがもてなしていることが分かりました。
数日前に来たという観光客のご夫妻は「新穂高ロープウエイで上がると、晴れていれば峰々が眺められる。爽快だが、寒いので要注意」と、私に教えてくださる。
とある宿のお嬢さんいわく、どこに行くにも車での送迎が必要で、それは専ら宿のオーナーである父親を頼りにしている。「父親は使ってこそ」などという話に、男性客も「僕も娘に使われているなぁ」と爆笑の一幕も。
こうしたたわいもない会話を聞いていると、観光地を訪ねたのではなく、まるで自分が地域の一員になったかのような錯覚に陥りました。
この晩に振る舞われたのはキムチ鍋。地酒は地元の人がよく飲む「神代」。辛口のキムチ鍋とすっきりとした「神代」がよく合うこと。
旅館の夕食中に、ひとりで地酒を飲むのとはわけが違う、格別な味わいでした。
繰り広げられる会話と地元の方が注いでくださった酒の味のおかげで、福地温泉がぐんと近しく感じたのです。私はこの晩の40分ほどの体験を忘れることはないでしょう。
「あつ鍋の日」は、かれこれ10年ほど実施しているそうです。8月には「へんべとり」といって、神楽を舞う祭りが20日間開催されます。この時期を目指すお客さんもいるそうで、コアなファンを獲得しています。
後日「長座」の女将からこんなメッセージが届きました。
「日本にはたくさんの温泉地があり、地元の者は一生懸命その土地のものを守ろうと頑張っています」
地域の人と旅人との接点の場を設けて、お客さんに親近感を持ってもらうということなら、佐賀県嬉野温泉での体験も思い出します。各旅館に宿泊しているお客さんとそれぞれの宿のオーナーやスタッフが混在して行う「スリッパ卓球」です。あれも思い出深い時間でした。
近年、高付加価値化により、長年据え置きだった宿泊料金を上げられるようになったこと、並行して雇用の標準化が進み、賃金が上昇していることは非常に好ましい流れです。加えてインバウンド客に高単価で宿泊してもらえれば、なおありがたい。
一方で、宿泊料金が上がることで日本人が旅館に泊まれなくなってきていることも、もっぱらの話題です。
そのような状況で、「観光は草の根交流」を実践する奥飛騨温泉郷福地温泉は、日本人が行きたい温泉地になるのではないかと感じた滞在でした。
(温泉エッセイスト)
(観光経済新聞2025年3月31日号掲載コラム)