私は、日本人なら誰もが知っている著名人や文人墨客が温泉地や旅館に滞在したエピソードを聞き書きすることもライフワークにしています。
それは、日本が最も輝いていた昭和時代の遊興の場の史実だからです。本連載のように、「私が何を考えたか」をお示ししていくコラムやエッセイとは異なり、ただ正確に事実を記録するノンフィクションライターとしての仕事です。
2022年度新春号(2021年12月発売号)から月刊「潮」で「宿帳拝見―『あの人』が愛した湯」という連載が始まりました。
初回は「細うで繁盛記」等で知られる脚本家・花登筺(はなとこばこ)さんと、同じく「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」で有名な脚本家・橋田寿賀子さんと山形県かみのやま温泉「古窯」の関わりを大女将の佐藤幸子さんからお聞きしました。
執筆が苦しくなると、手の甲に針を刺しながら書いた花登さんの姿。橋田さんがNHK朝の連続テレビ小説「女は度胸」の構想を練った一夜。鮮烈なエピソードが並びました。
連載2回目の取材で、山形県・小野川温泉の「宝寿の湯」のご主人・関谷寿宣さん、女将の関谷幸子さんから聞いたお話で最も心に残っているのは、俳優の田中邦衛さんの気さくな人柄です。田中邦衛さんは滞在中、普通に大浴場で入浴し、「お風呂にいるのは田中邦衛さん?」と、驚いた他のお客さんがフロントに駆けつけてきたのは1度や2度ではなかったというのがほほ笑ましい。
現在発売中の「潮」の連載3回目には、NHKでドラマが放送された後に、映画化や舞台化もされた「夢千代日記」の撮影秘話が掲載されています。樹木希林さん、吉永小百合さんのお2人を主軸に、当時関わった兵庫県・湯村温泉のスナックのママが語っています。
連載は毎回6ページ、4千文字前後の少し長めの原稿ですので、逸話を丁寧につづることができます。
このテーマは、これまでもたびたび書いてきましたが、今改めてリサーチしてみると、「オーナーが代わり、話す人がいない」といった難題にぶち当たることがあります。家業を廃業にしたオーナーチェンジを経ると、語り手がいなくなってしまうのです。代々一家で受け継ぐ家業である旅館だからこそ、語り継がれていく史実。建物は保存されても、そこに息づく文化や風習は引き継がれないということを目の当たりにしています。
その点、「古窯」の継承の仕方は実に見事です。まず、語り部の役割を担っている女将が3世代いること。また、著名人が来たときに書いてもらう「らくやき」は3千枚を超えたそうで、これだけでも十分なヒストリーとなります。
ちなみに次回の第4回は、青森県・龍飛崎温泉で高倉健さんが見せた、意外なほどのチャーミングな素顔について書きました。
そして現在書き進めている連載5回目の原稿は、女の情念を歌い上げ、国民的人気を博した演歌の創作秘話についてです。
どうか皆さまの旅館に残る事実は語り継いでいって下さい。可能ならそれらを書き残して下さい。貴重な資料についてはギャラリーをお作り下さい。ギャラリーといっても、大仰な展示を意味しているわけではなく、「取材を受けた記事は廊下に展示する」「思い出の品はケースに入れて、お客さんにご覧いただく」などです。これらが、継承の第一歩です。
そうした一つ一つの宿での積み重ねが、ひいては日本の温泉旅館全体にとっての尊い価値となっていきます。
(温泉エッセイスト)