関東運輸局が立ち上げた観光施策「江戸街道プロジェクト」のキックオフ・シンポジウムが、さる7月4日に、現地とオンラインのハイブリッドで開催されました。
現地会場を室町三井ホール&カンファレンスにしたのは、街道のスタート地点の日本橋で開催したいという思いがあったようです。
こうした広域関東における新たな観光魅力の発信がテーマのシンポジウムで、トップバッターとして「温泉が文化になった江戸時代~街道が果たした役割~」を30分話しました。
日本の温泉の歴史を振り返ると、さまざまなターニングポイントがあります。1300年以上も前に風土記に記された古代の入浴から始まり、戦国時代には多くの武将が温泉を愛しました。代表的なのは武田信玄の隠し湯、豊臣秀吉の有馬温泉の開発でしょうか。
最も温泉に変化をもたらしたのは「江戸」と「昭和」の二つの時代であり、温泉を専門にする私は、日本人と温泉を決定的に強く結び付けたのは江戸時代だと考えています。
江戸時代に庶民の文化が開花したことは周知の事実ですが、温泉も同じこと。ざっとその流れを説明します。
慶長9年(1604)、関ケ原の戦いから4年後に家康が熱海温泉を訪れました。天下人である家康の熱海湯治が「温泉と庶民の濃密な関係」のきっかけとなりました。熱海の湯を気に入った家康は1606年に江戸城までその湯を運ばせます。その後、歴代の将軍も同様に熱海の湯を江戸城に運ばせ、さらに後、草津の湯が加わりました。これを「御汲湯(おくみゆ)」と言います。
お湯は樽(たる)に入れて、ふんどし姿の男性が7~8人で仰々しく運びました。この様子を庶民が見て、「天下人が運ばせるお湯とは?」と、興味が高まりました。これが絶大な宣伝となり、「俺たちも入りに行ってみよう」と庶民の温泉(湯治)ブームへと発展していきます。
なおこの頃は、一般庶民に通行手形が発行されたのは「神社詣」と「湯治」のみでしたので、一層ブームに拍車がかかったわけです。
こうして庶民が温泉に目覚めることで、温泉が文化へと育ちました。顕著な事例を挙げると、江戸時代中期から後期にかけて作られた「諸国温泉功能鑑」です。相撲の番付に見立てて、病気に効く温泉地から順に並べられています。
江戸時代後期には有馬、熱海、箱根や草津にどんな人がどのようにして旅したかをリアルに描いた紀行ルポが書かれています。例えば、「滑稽有馬紀行」「有馬日記」「玉匣温泉路記」などです。
加えて温泉学者の台頭です。日本で初めて温泉の泉質調査をした宇田川榕菴もこの時期に活動していました。
江戸時代は入浴にも工夫がありました。江戸から草津へ行き、殺菌効果のある酸性泉や硫黄泉に入って皮膚病を治し、体調を整えます。帰りに肌を整えるために「仕上げの湯」として四万温泉などの硫酸塩泉に入って江戸に戻りました。現代以上に、湯めぐりにおける効果効能を熟知していたといえます。
「江戸街道プロジェクト」は3カ年計画で、調査期間がありますので、その土地ならではの温泉入浴法を調べて、それを応用した「温泉街道」を作ってはいかがでしょうか。歴史背景を絡めることができたら、日本の温泉文化を再認識するきっかけになります。
あるいは草津から四万温泉ルートを使った江戸時代をオマージュし、複数の温泉を巡るルートを作ってみるのも手です。いわば温泉の効果効能をパッケージ化した「温泉街道」です。最も大切なのは、温泉療法医を招いて、医師を中心にグループワークをすることです。エビデンスを出しにくい温泉においては、医師の裏付けがあってこそ、お客さんからの信頼を得られます。
(温泉エッセイスト)