半世紀以上も昔、1960年代後半に父が3カ月にわたりアメリカに出張した。出発数日前には親戚が集まり、ささやかな壮行会が開かれ、当日には何人かが羽田空港まで見送りに出かけた。父はスーツにネクタイ姿で、ちょっと緊張した面持ちだったのを覚えている。カジュアルな服装で、ウキウキと海外に旅立とうという人たちであふれている昨今とは様変わりだ。
今年は日本人の完全渡航自由化60周年に当たる。それまで商用や留学などに限定していたのが、観光旅行も解禁となったのだ。当時の記事をみると、JALパックのハワイ9日間約36万円だったという。この当時の大学卒の初任給が2万円程度だった。まさに高嶺の花で、だれもが気軽に海外旅行ができたのではない。
その後、日本人の海外渡航者は右肩上がりで増え続けた。背景には日本の精密機械や電気製品、車などの輸出によって貿易摩擦が生じ、海外から批判が巻き起こった。これに対し、日本人が海外でお金を使い、少しでも摩擦解消になればとの思いがあった。
ちなみに、1985年には、日本人の海外旅行者数は495万人、訪日外国人旅行者数は233万人だった。そうした中で、1987年に政府が打ち出したのが、日本人渡航者1千万人を目指す「海外旅行倍増計画=テンミリオン計画」だった。
このキャンペーンが始まる前の1977年、学生だった筆者はバックパッカーとして、グレイハウンドバスの周遊券を買ってアメリカ1周のバス旅行に出かけた。この時の体験は鮮烈に記憶している。最初の1週間程度は緊張のあまり、ビールを飲んでも全く酔いが回らなかった。バスで隣に座った老婆がその州を出たことがなく、ましてや日本は中国の一部かと聞かれ、中国語を話すのかと言われたこともあった。
当時は小田実『何でも見てやろう』など、海外放浪記的なベストセラーの影響で、世界各地を旅して回るのが、若者の流行でもあった。新聞記者になってから、観光分野を担当した際もテンミリオン計画について取材もした。急激な円高の影響もあり、結果的には1年前倒しで1990年には達成された。
あれから60年、コロナ禍を経て、今は官民あげてインバウンドの大合唱だ。一方、日本人の海外旅行は元気がない。若者と話すと海外旅行に興味を持つ人は明らかに減っている。女性に限れば、K―POPの韓国に行きたいというばかりだ。日本人の海外留学もコロナ禍前に比べると低迷しているという。特に、ここ1年ほどは円安もあり、費用が割高になっているのも向かい風だ。
アメリカ一人旅以降、南米とオセアニアをのぞき、海外には何度も足を運んだ。経済部記者時代は、時差の関係でほとんど徹夜続きの国際会議取材もあったが、それぞれの旅先での思い出はしっかりと心に刻まれている。それだけに若者にはもっと外国に関心をもってほしいし、年齢を問わず海外に出てほしい。筆者も元気なうちは、海外を旅したい。それには、円相場が少しでも円高方向に振れてくれることを願うのみだ。
(日本旅行作家協会理事、元旅行読売出版社社長)