G7広島サミットは、被爆地・広島を舞台に、現在の戦争当事国ウクライナの指導者ゼレンスキー大統領を仏空軍のエアバス機で招くという異例の展開のなか終幕した。米国をはじめ各国首脳が広島平和記念資料館を訪れ認識を新たにしたことは、歴史的にも意義深い。
ゼレンスキー氏を筆者が研究論文に取り上げたのは20年3月、ロシア軍が侵攻する以前のことである。日本学術振興会の科学研究費助成事業「科研費」が採択され、ウクライナを現地調査の一つに挙げた。首都キーウ(キエフ)から北に100キロのチョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所周辺を観光地化するという大統領令に署名したのは、同氏の就任直後。視察ツアーを催行する現地旅行会社は、そのときすでに40社を超えていた。
福島第1原子力発電所の事故を受けて、「災害と観光」をキーワードに自身の学術研究を進めるなかで、ウクライナ調査は5カ年研究の主軸になるものと考えていた。ところが、ロシアによる一方的なウクライナ侵攻が始まると、原子力施設が攻撃対象になるなど、状況は一変した。「事実は小説より奇なり」である。ウクライナは、日本のあるべき姿を考えさせてくれたのと同時に、その役割がいかに重要かを、身をもって教えてくれたような気がする。
先の大戦で、古都・京都が焼け野原にならずに往時の姿を残せたのが、今の観光地としての発展につながった。実は新潟市が、原爆投下の目標地点だったのは、年配者は誰もが知る真実だが、若い人は意外と知らない。
23年4月に出版された「駐日スイス公使が見た第二次世界大戦~カミーユ・ゴルジェの日記」(大阪大学出版会)を読めば、日本が誇る洗練された別荘地・軽井沢にも同じようなことが言えよう。
先の大戦をくぐり抜け、軽井沢が今なお、優美な空気を醸しているのは、戦争末期に空爆回避懇願電報を打った中立国スイスが関係していたかもしれない。
1940年、駐日スイス公使として赴任したカミーユ・ゴルジェは、執務の傍ら、戦禍で変わりゆく日本の姿を克明に日記に書き留めた。その内容は、東京空爆や沖縄戦、広島・長崎の原爆投下や終戦の日、戦後の霞が関や麻布・六本木の破壊された様子までもがつづられ、国民性も鋭く描写している。
本書は初の完全日本語翻訳版で、原文はフランス語。訳者は元スイス政府観光局次長の鈴木光子氏である。筆者が学術の世界に足を踏み入れることになった、きっかけをつくってくれた恩人でもある。日本を愛したゴルジェの心の機微を、美しく分かりやすい日本語で、丁寧に訳している。
観光は「平和産業」といわれる。テロや紛争、疫病、大規模な自然災害による機会損失は、避けようもない。しかし、人々の営みや、美しい街並みを、人為的に破壊する戦争の、その悲惨な体験を後世へと語り継ぎ、同じ過ちを二度と繰り返してはならないというメッセージの伝達手段として、ツーリズムは重要な役割を果たす。
今回のG7は、広島・長崎・沖縄での平和学習の意義や教育旅行の重要性を確たるものとした。京都や軽井沢、新潟もまた、私たちに今、見せる景色の違いや歴史を、丁寧に語り継いでいってほしい。 (淑徳大学 経営学部 観光経営学科 学部長・教授 千葉千枝子)