東日本大震災から10日後の11年3月21日、釜石で祖父らの遺体確認をしたあと、実父の生家がある陸前高田に立ち寄った。自衛隊の手によって道は開かれていたが、地獄絵のような光景が広がっていたのを今でも思い出す。一つ手前の家が流されたと、呆然と立ちすくむ老いた従兄をみつけ、無事を確認したのち、日が沈まぬうちにと被災地をあとにした。
同年夏に新盆で再訪した。海沿いにたたずむ「キャピタルホテル1000」は、割れたガラス窓から、レースのカーテンがばさばさと音を立てながらひるがえっていた。廃墟と化したかつてのランドマークを建て直そうと立ち上がったのが、現在の同社代表取締役社長・松田修一氏である。現職の陸前高田市議でもある。
震災当時、彼は台北にいた。県庁職員時代に、いわて花巻空港を活用した観光行政を担当した同氏は、その実力を買われて花巻温泉株式会社に転身していた。台湾の有力旅行会社やランドオペレーターを訪ね歩いていたときに、震災をニュースで知ったのである。
すぐさま羽田行きの航空券を予約して、翌12日から八重洲富士屋ホテル(当時)に待機した。15日発の青森空港行きが手配でき、陸前高田に暮らす家族のもとにたどり着いたのは、19日のことだった。かろうじて老親は無事だった。
キャピタルホテル1000は、同市出身で「北国の春」などが大ヒットした歌手・千昌夫氏にゆかりがあることからネーミングされた。バブルがはじけて経営破綻してからは、第三セクターとして再出発したが、そのわずか10年後に震災に見舞われたのである。
こうした苦境に救いの手をさしのべたのが三菱商事復興支援財団である。気仙沼信用金庫を中心に産業復興支援グループ補助金が第一号で適用され、高台に移転して再建がなされた。13年11月、新たなホテルが誕生。松田氏は、ふるさと陸前高田の地で新たなランドマークとともに歩むことを決意して、のちに代表に就いた。
今はまさに「第2期復興・創生期間」にあたる。政府は、令和3年度から同7年度までの5年間を新たな復興期間と位置付け、被災地の自立・自走を求めた。復興交付金は廃止され、事実上「復興は終わった」のである。だが、これからというときに、コロナ禍に見舞われた。
去る6月18日、松田社長に現地で単独インタビューをした。2時間強に及ぶ取材のなかで浮かび上がったのは、「政治」の重要性である。企業や大学の誘致などにみられる産業人口の創出や広域観光の推進は、政策なしには語ることができない。今年2月の選挙で、陸前高田市長が交代したばかり。これからが戦略的復興の時機なのだろうと感じた。
電気料金の高騰や人手不足など、ポストコロナで、被災地のホテル経営に課題は山積だ。しかも、市議との二足のわらじに民衆の理解を得るには、相当の努力が必要だろう。松田氏の苦悩も見え隠れした。市と包括協定の覚書を交わした共立メンテナンスは、近く「ドーミーインEXPRESS陸前高田」を開業する予定だ。チェーン系ホテルの進出は相乗効果も高く、松田氏も期待を寄せている。
市政を味方に、陸前高田市をさらに盛り上げていってほしい。
(淑徳大学 経営学部 観光経営学科 学部長・教授 千葉千枝子)