地方の温泉に行くと、昔ながらの男女の混浴もある。アメリカのペリー来航時にV・ハイネの描いた「銭湯」は、静岡県の下田のもので混浴。男女一緒の入浴風景は江戸時代の日常の光景であった。が、宗教、文化や価値観の異なる外国人の目からすれば、それは奇異に映ったのは申すまでもない。やがて日本でも西洋文化や習慣が定着して久しい。
ところが、同性愛者など性的少数者(LGBT)への理解増進を図る条例づくりが、全国各自治体に波及し、「性的指向または性自認を理由とする不当な差別的取り扱いの禁止」等を掲げる。
「性的指向または性自認」、これほどやっかいなものはないが、人権という重さに圧迫されるしかない。男の身体をしていても、「私は女」と主張されれば銭湯では女湯に入ることが許されるのだろうか。「差別的取り扱い」禁止をうたい上げる前に「性的指向または性自認」の定義付けを明示すべきである。けれども、これも一般的には難しい。
同性愛者や性的少数者(LGBT等)は、昨日、今日、出現した存在ではないが、法や条例で理解増進を図ろうとする風潮が強くある。昭和の世では日陰者的立場にあり、公然とは社会に出て活動しづらかったが、平成時代からぼつぼつ表舞台で活躍する人材が登場してきた。メディアも彼らの個性を稀少価値と認め、多くのスターも誕生した。昔から男色の相手役としての少年を稚児と呼び、珍しくはなかったけれど、主役ではなかった。
2021年に自民党は、上記と同趣旨の法案を提出しようとした。だが、意見調整が難航したために提出できなかった。LGBT等の理解増進は容易ではない。定義付けできない、あいまいさを持つ法律を成立させるのは、法治国家では困難だと私は考えるが、地方自治体にあっては条例として可決、成立させていて、すでに50を超す自治体がある。理解増進はいいとして、細部にわたって決めつけてしまうと逆に問題を起こす場合がある。
それでか、条例を施行した自治体のいくつかは、誤解を回避するための解説を作成している。例えば、公衆浴場やトイレなどの使用について、「性の多様性は認めるべきだが、他者の保護との関係から課題となる部分、制限される部分もあると考えます」と歯切れの悪い注釈を加える。もちろん、LGBTの個人が常識によって行動してもらえるように期待している感じもするが、その条例によって混乱が生じては困る。「差別」は許されないにつけ、「区別」できる常識を求めねばならない。混浴の温泉や銭湯を日常のものとしてきた日本人、それは日本人の性欲の趣向と関係があると私は考える。
明治初期の政府が諸外国から招聘(しょうへい)した教師にエドワード・モースがいた。大森貝塚を発見して、日本の考古学をスタートさせたが、モースは海中生物学者で考古学者ではなかった。モースの書いた「日本その日その日」が面白い。大変な親日家となり、さまざまなコレクションを持ち帰り、シカゴにモース記念館を作る。モースは、礼節に富むお手伝いの女性に感心する。日本人の高貴さに魅力を覚えたのだ。
ところが暑い夏、風呂あがりのお手伝いさんが夕涼み、大胆にも上半身丸出しなのに驚く。欧米では、女性が上半身をさらすことはタブー。礼儀正しい日本人女性はブラジャーのない時代、うちわを片手に上半身丸出し、モースはこの落差を理解できず、日本人女性は不思議だと思い、ドイツから招聘された医師のベルツ博士に、この不思議さを問うた。
ベルツ医師は、日本人女性の肌は欧米女性のそれと異なり、ツルツルしているという。日本人男性は、視覚から興奮せず、触覚で性欲を催すのだと説明した。だからか、混浴が一般的であったのかもしれない。
いずれにせよ、性の多様性に関する条例の制定は、十分な議論が必要だと思うが、政治が人気取りのためか専行している印象を受ける。学校での性教育は、ますます難しくなり混乱しないだろうか。