コバルト・ブルーのリボンを遺影にも付けていた故安倍晋三元総理、拉致問題を気にされていた証拠であろう。では、グリーンのリボンをご存じだろうか。まだまだ知られていないが、臓器移植のシンボルなのである。わが国は、医療技術が世界のトップレベルにあるのだが、残念ながら臓器移植は遅れている。私の医療被保険者証の裏面に臓器移植のために、臓器を提供する意志があるかどうかの記入欄がある。もちろん、脳死後および心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供しますという欄に丸印を付けている。で、私のサインとともに家内の自筆のサインもある。
法律が成立するまで、永きにわたって、「脳死」は「死」か、という神学論争が続いた。心臓が動いているのだから「死」ではないが、やがて脳が壊死しているために「死」に至る。この「脳死問題」が、わが国の臓器移植を遅らせたといえる。宗教的視点、倫理観、個人の感情等、整理すべき問題が多岐にわたった。
代議士になってすぐに、臓器移植の問題に取り組むこととなった。「臓器の移植に関する法律」を成立させるため、中山太郎会長のもとで議論を重ねた。かかる法律は、与野党を二分するような形で成立させるのではなく、可能な限り反対者を少数にとどめる必要があった。中山会長は医師だけに適任者だった。1997年6月、議員立法で成立、同10月に施行された。脳死移植が可能となり、患者たちの期待は大きく、海外に出て手術を受ける必要もなくなった。が、ドナー(臓器提供者)が少なく、病に苦しむ人たちの命をつなぐことが十分にできず、海外に行く患者を減少することができなかった。
プロレスラーのジャンボ鶴田選手は、私の家の近くに住んでいたので、よく拙宅に来られた。ある日、「アメリカの大学に行きます」とあいさつにやって来た。顔が茶色、どう見ても肝臓に異常がある感じがした。それから数カ月後、フィリピンからの外電で、マニラの病院で亡くなったことを知った。おそらく、肝臓移植がうまくいかなかったのだと想像した。ドナーの増加しない原因は、書面による本人の意思表示が必要だったからだ。まず、そうしないことには法の成立が困難だったからでもある。子どもの移植をも認められていなかった。が、私たちは一歩前進したと考えていた。
やがて改正が進み、本人の意思表示とともに家族の承諾でOK、また15歳以下からの提供も認められるようになった。改正時は、最初の成立時のような熱気は感じられず、多くの政治家たちの理解も進んだ。外国で臓器移植を受けるために渡航するニュースもあり、その失敗例等も報じられ、「移植ツーリズム」を防止する観点からも改正が求められていた。
日体大では、毎年、新入生たちにNPO法人の日本移植支援協会から、「臓器移植」について説明を受けさせている。法律が施行されて25年もたちながら、常にドナー不足で助かる命も助からない現状を私たちは打破せねばならない。学生たちは、真剣に耳を傾け、命をつなぐ重要性を学んでいる。この種の知識を豊かにし、全ての国民が臓器移植に興味をもってほしいと願う。もし、どの自治体も公報や伝言板等で熱心に臓器移植について報じてくれれば、1人でも多くの命を救うことができる。ドナー不足の解消は、政府はもちろんのこと、自治体もことあるたびに宣伝してくれれば、少しは助かるに違いない。臓器移植は、対岸の問題ではなく、私たちの身辺にも必要なドナーを待つ患者が多数いる。
私もドナーの1人であるが、心臓、肺、肝臓、腎臓、小腸、眼球の提供に同意している。ただ、膵臓(すいぞう)をがんのために手術しているので、多分、使いものに膵臓はならないと思っている。自治体や医療界、そして学校関係者は臓器移植の正しい知識を広め、ドナーとしての意思表示をする人を増やしてほしい。日本では、脳死の人たちの臓器提供者は1年で100人を超えない。自治体は命をつなぐ組織たれ、と私は言う。