【学術×現場 2】接客係の名札も「姓」だけで十分では 福島規子


 国土交通省は、バスやタクシーの運転手に義務付けていた車内での「氏名掲示」を廃止する。運転手の個人情報保護のほか、カスハラと称されるカスタマーハラスメントいわゆる顧客による嫌がらせから従業員を守るという側面もある。現に、運転手の顔写真入りの名札をスマホで撮影する乗客もいるらしく、女性運転手にしてみれば恐怖以外の何物でもない。

 一方、厚生労働省でも昨年6月に薬局開設者に対し、薬剤師、登録販売者または一般従事者の名札に「姓のみまたは氏名以外の呼称」を記載することを認めても差し支えないとする局長通知を発出している。こちらもストーカー被害やカスタマーハラスメントの防止を意識しての措置である。

 さて、宿泊業界でも名札にフルネームを表示している旅館は少なくない。先日、宿泊した大型観光旅館でも新入社員たちの胸には大きくフルネームが書かれた名札が輝いていた。

 サービス業の名札がフルネーム表示なのは、いくつか理由がある。たとえば、無形の商品である対人接客サービスを有形として扱うには、誰がどのようなサービスを行ったのかを明確にし、サービスの品質を管理する必要がある。また、従業員に自覚を促し、責任を持たせるといった従業員の意識付けも理由のひとつである。

 ところで、昭和~平成初期まで旅館の接客サービスは、腕一本で旅館を転々とするベテラン仲居や幼子を抱えたシングルマザー、訳アリで本名を名乗れない女性たちによって支えられていた。当時の接客係は姓を公にせず、下の名前で呼びあうのが一般的で、「愛子」「清美」「芳江」といった源氏名を使う接客係も珍しくなかった。源氏名といえば、20年ほど前に某大型観光旅館で目にした衝撃的な光景が今でも忘れられない。

 入社初日、支配人は20人弱の高卒女子を前に「これから名前を決めます」と言ってカラカラと音がする缶を掲げてみせた。缶の中には退職した仲居が使っていた「源氏名の名札」が20~30個入っており新人たちは順に缶に手を入れ、名札を引いていく。支配人いわく、「それが、今日からあなたの名前です。生まれ変わったと思って、本名ではなくその名前で働いてください」。絶句。

 高校を卒業したばかりの新入社員たちは、これが旅館の当たり前だと勘違いしたかもしれない。他人の名札、源氏名を強要される嫌悪と失望。旅館の源氏名とは、女性が自立し生きていくには仲居の仕事しかなかった時代の産物であり、仲居の社会的地位の低さを示す証でもあった。

 旅館業界では、仲居改め接客係の地位向上のため源氏名を使わず本名で働ける職場づくりに取り組んできた。源氏名を本名の名前に変え、本名の名前に姓を付けてフルネームとした。そして、フルネームから姓のみの名札へ。名札不着用という選択肢はないが、名札の表記については危機管理の観点から検討すべき時期と言えよう。

 福島 規子(ふくしま・のりこ)九州国際大学教授・博士(観光学)、オフィスヴァルト・サービスコンサルタント。

 
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