1995(平成7)年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災。震源地の淡路島北部、最大震度7を記録した神戸市の一部などは観光施設、宿泊施設も建物が損壊するなど大きな被害を受けた。
被害が比較的小さかった淡路島南部や兵庫県北部も発地住民の被災や観光自粛、道路事情により観光客の入り込みが大きく減少した。
兵庫県のデータによると、同県の観光入込客数は震災前年の93年度(93年4月~94年3月)に1億1295万5千人。震災があった翌94年度に1億831万8千人と前年度比4.1%減少。さらに95年度は8888万2千人(93年度比21.3%減)と1億人の大台を割り込んだ。
被害が大きかった神戸では、震災があった95年の8月には約8割の観光施設が営業を再開した。ただ、前記の要因により、観光客数の回復には時間を要した。
「観光産業が震災前の活力やにぎわいを取り戻すためには、震災によるマイナスイメージの払拭と、一日も早い観光客の呼び戻しに官民の総力を挙げて取り組んでいくことが不可欠」と、兵庫県観光連盟を軸に合計49の関係団体・企業による「“観光ひょうご”復興キャンペーン推進協議会」が95年7月に設立された。
協議会は同県出身の女優浅野ゆう子さんの「ひょうご観光大使」への任命、「全国縦断キャラバン隊」のマスコミや旅行業者への派遣、テレビCMの放映、各種会議・大会の誘致に対する支援など、さまざまな活動を展開。
並行して、犠牲者の鎮魂、都市の復興・再生への思いを込めたイベント「神戸ルミナリエ」を95年12月に初開催した。初回(12月15~25日の11日間)に約254万人が来場。以降、2024年まで29回開催され、24年(1月19~28日の10日間)はおよそ230万人が来場するなど、神戸の冬の風物詩としてすっかり定着している。
「“観光ひょうご”復興キャンペーン推進協議会」はその後、従来のキャンペーンやPR活動だけでなく、地域の観光振興に係る政策提案活動にも取り組む必要があると、98年に「“観光ひょうご”復興推進協議会」に改組。観光客の動向の分析や広域周遊型観光の促進、被災地域の主な集客施設・イベントを「阪神・淡路百名所」として選定するなどさまざまな事業を行った。
98年4月は全長3911メートルと、当時としては世界最長の吊り橋「明石海峡大橋」が開通。淡路島を中心に地域一帯に大きな集客効果を及ぼした。
95年度に1億人を割り込んだ県内への観光入込客数は、翌96年度に1億433万人と1億人台に復活。明石海峡大橋が開通した98年度は1億2712万9千人と、過去最高を記録した。
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淡路島中部、洲本温泉(洲本市)のホテル「淡路インターナショナルホテル ザ・サンプラザ」の樫本文昭社長に当時の状況と復興までの取り組みを聞いた。
樫本社長は震災当時について「施設自体に大きな被害はなかった」というが、顧客の多くを占める阪神地区の住民が被災するとともに、淡路島全体が大きな被害を受けたとの風評が立ち、それ以外の人々にも観光の自粛ムードが広がった。
「観光のお客さまがおらず、館内はメディアの方のみが泊まっている状況。昼間は被災した近隣の方たちに向けて大浴場を開放した。そのような状況が夏ごろまで続いた」(樫本氏)。
風評被害を受ける淡路島を支援しようと同館に宿泊する人々も夏ごろから増え始めたが、以前とは程遠い状況だった。
当時、地元商工会議所の青年部会長を務めていた樫本氏は、全国の商工会議所が主催するイベントに出向き、淡路島の現状を説明するとともに、地域の観光魅力をPR。風評被害の払拭に努めた。
その成果もあり、同年の後半は例年の約7割まで宿泊客が回復。ただ、その後1~2年は復興支援の機運も低下し、観光客の完全回復はならなかった。
様相が大きく変わったのは98年4月5日の明石海峡大橋の開通。その効果は大きく、「観光バス、マイカーの観光客が増えるなど風評は一掃された」(樫本氏)。
効果は1年で終わったものの、開通から2年後の2000年3月は島内で大規模イベント「ジャパンフローラ2000(淡路花博)」が開幕。184日間の会期中、目標の200万人を大きく上回る約694万人が来場した。
地方創生が叫ばれ始めた08年はパソナグループが淡路島に進出。農業の活性化事業ほか、公園や宿泊、飲食などさまざまな観光関連施設の運営を始めた。
地元ではこれを契機に「淡路島を”観光立島”に」との機運が高まり、10年は行政単位ごとにあった観光協会を一本化し、「淡路島観光協会」を設立。12年は法人格を取得し、「一般社団法人淡路島観光協会」としてさらに活発に動ける体制づくりを行った。20年は協会内に観光戦略室を発足、協会の人員を増強するなど、観光振興の体制を一層強化した。
淡路島・洲本温泉。震災の風評被害をさまざまな施策で乗り越えた