なじみの深い地、福岡出張のときには必ずと言っていいほどお邪魔するバーがある。オーセンティックだけど斬新な雰囲気のお店だ。腰を下ろしたとき聞こえてきたのは、オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの「大地の歌」。しみじみと勇気が出てくる大好きな曲だったので、おのずとマスターとの会話が弾んだ。マーラーが言い残した「伝統とは火を守ることであり灰を崇拝することではない」という言葉は迷ったときにいつも心をよぎる。
静かに深く息を吐いたときマスターが「今日は暑かったでしょう」と目の前に滑らせてくれたのは和包丁で削った氷をまとったスティンのクラフトジンソーダ。ロブマイヤーのソーダタンブラーに宮崎の「べへず」が添えられている。そういえばロブマイヤーもオーストリアのガラス工芸メーカー。1823年の創業以来、創業者一族による経営で、伝統的なワイングラスやタンブラー、革新的な日本酒グラスなど、挑戦的に品ぞろえの範囲を広げているように映る。
そんな心地よい時間が経過する中「こんな曲もいかがですか?」と流してくれたのは管弦楽デュオ、バルトロメイ・ビットマン。クラシック、ジャズ、ロックが融合したお酒に合う曲だ。そういえば、1917年創業のスティンジンも2011年結成のバルトロメイ・ビットマンもそのルーツはオーストリア。成立千年を超える国にあっても、灰を崇拝することなく火を守り続ける営みが今も続いていることに感動しつつ1日が終わる。
翌日、古い友人が迎えに来てくれたときの愛車は、本人いわく「清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した」という1970年式ポルシェ911。1963年のフランクフルトモーターショウにプロトタイプとして展示され、以来半世紀以上にわたって100万台以上が生産されてきた。個性的で伝統的を忘れることなく常に最先端のテクノロジーが導入され世界中に熱烈なファンを持つ。
福岡のバーもスティンジンもバルトロメイ・ビットマンもポルシェ911も始まりから現在まで伝統と革新を融合し続けている。世の中に支持されるために大切なことは、(1)革新の継続を忘れないこと。常に守るべきことと変えるべきことのバランスを考え時代と共に歩んでいる。(2)親からの教えや会社の伝統を大切にし、危機のときこそその理念に立ち返ること。始めたときの思いを忘れることなく時代とともに変化していくこと。(3)経験を踏まえ外部環境に影響されず自分自身の成長を目指すこと。拡大よりも継続することを重視していること。などではないだろうか。
そう考えると今はやりのSDGsやDXについても「灰を崇拝することなく火を守る」精神が必要なのではないか。伝統と革新を融合しながら事業継続を行うためにSDGsやDXが必要なのだとしたら、5年後も10年後もこの二つの言葉は残っているのだろう。
そんなことを思いながら2晩めの福岡は更けてゆく。
(EHS研究所会長)