八幡堀と豪商屋敷に歴史の名残
近江八幡駅から北西にまっすぐ延びる小幡通り。正面の小高い山は城主・豊臣秀次が築いた八幡城跡。その麓に掘削して湖水を引き込んだ八幡堀がある。往来の船に寄港を義務付けたので城下は大いににぎわった。
だが秀次は5年で転封、続く京極氏は5年で廃城。城下の商人たちは途方に暮れ、天秤棒を担いで諸国へ行商に出た。それが後世、多くの豪商を生んだ近江商人の始まりだという。
彼らは「始末(倹約)して気張る」を信条に「買い手よし、売り手よし、世間よし」の「三方よし」の精神で財を成し、外観より内部にお金をかけた屋敷を建てた。
象徴の八幡堀は放置されどぶ川だったが、市民の熱心な保存運動や清掃活動で再生。堀端の石垣や石畳、遊歩道が整備され、桜や菖蒲が咲く市内随一の観光名所に生まれ変わった。
ここを起点に市民の信仰厚い日牟礼八幡宮やロープウェイで八幡城跡へ。そして多くの観光客は商人屋敷が連なる碁盤目状の新町通り界隈をそぞろ歩く。
なかでも広壮な旧西川家住宅や旧伴家住宅では、質実さの陰に豪奢な暮らしがしのばれた。一帯には近江牛や赤こんにゃく、丁子麩、でっち羊羹など八幡名物の店に親しみ深まった。
近江八幡は和の風情の町だが、所々でレンガ塀や高い煙突、上げ下げ窓のモダンな洋風建築が目につく。 明治38年、八幡商業高校の英語教師として来日したウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の20軒余の住宅や公共施設である。
彼は日本人を妻に終生ここに住み、メンソレタームの輸入や病院、図書館、学校の開設など多くの社会事業に力を尽くした。「建物の風格は人間と同じで外観よりむしろ内容にある」の彼の言葉は近江商人に通じる。
国内各地や安南(ベトナム)まで進出して成功した商人たちと、洋風文化を伝えた外国人を快く受け入れた近江八幡は、多様な歴史を秘めたおおらかで懐深い町である。(旅行作家)
●近江八幡観光物産協会 TEL0748(32)7003