蔵王連峰を望む緑深い村里
山形県中東部、蔵王連峰を仰ぐ上山(かみのやま)は古くからの湯の町。松平氏3万石の城下町としても栄えた。温泉旅館や天守閣、武家屋敷が歴史を語り継ぐ。
謳い文句に「蔵王と城と茂吉のふるさと」とあるように、北郊の金瓶(かなかめ)は大正・昭和の歌人・斎藤茂吉の生誕地。ほど近くに数寄屋風の近代的な斎藤茂吉記念館があった。
館内では映像やパネル、写真などで作品や書画、交遊、故郷をテーマに、歌人と医師の二つを生きた茂吉の人と業を紹介。屋上からは「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」と茂吉が愛した蔵王がくっきりと見えた。
茂吉の生家はここから北に1キロほど。守谷の表札がかかるこの家の3男に生まれたのは明治15年(1882)。通った金瓶学校や学業優秀を見込まれた住職に漢文や書を教わった宝泉寺が隣接。よく遊んだ金谷堂神社などゆかりの場所が近くにあった。のどかなこの地で遊び学んだ茂吉は14歳の夏に上京。同郷で縁戚の医師の斎藤紀一宅に寄留し、一高、東大医科を経て医師に。後に13歳年下の紀一の次女輝子と結婚、婿養子に入り、斎藤姓に変わる。すぐれた短歌で、歌人としても大いに名を上げた。
3年の長崎医専教授や欧州留学などと恵まれたが、半面、病院の全焼、奔放な妻、10年の別居、自身の恋愛沙汰など苦悩や病を抱えた70年の生涯であった。
金瓶には何度となく帰郷し、疎開もする。母の死に際しては「みちのくの母の命を一目見ん一目見んとぞただに急げる」「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはず天に聞こゆる」など痛切な歌を多く残した。
宝泉寺で「茂吉さんのお墓」と教えてくれた地元のお年寄り。立ち話の中で「奥さんで苦労してねえ」と口ごもりぎみながら、茂吉に同情的な言葉を続けた。
茂吉が没して66年。ふるさと人には、今も身近な存在として生きている感じだった。
(旅行作家)
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