名城と名園に城下町の面影宿る
瀬戸内海に臨む高松は、かつて松平氏12万石の城下町。瀬戸大橋開通までは連絡船が通う四国の玄関口としてにぎわった。
3層の天守閣と17の櫓を構え、堀に海水を引き込んだ高松城は今も櫓や石垣、堀、屋敷を残し、大名庭園・栗林公園とともに城下町の歴史を語りかける。
この高松藩の儒学者の家に生まれたのが菊池寛。『父帰る』『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記』で人気を博した小説家。文芸春秋社を起こした実業家でもある。
明治21年生まれで59歳で没。昨年、生誕130年・没後70年の記念事業が催された高松を訪ねた。
最初に向かったのは中央公園南の菊池寛通り。通りに面した生家跡は駐車場になっていて、片隅の大国天像がそれを伝えるのみ。だが通りの東寄りに、放蕩(ほうとう)で家出して20年振りに帰ってきた父を許さぬ長兄と母、弟妹らの葛藤の場面の『父帰る』のブロンズ像に寛のふるさとを実感。中央公園には実業家らしいいでたちの銅像があった。
その西方1.5キロほどにある菊池寛記念館で、自筆原稿や愛用品、書斎、展示に見入って、人柄や生涯、功績をしのんだ。記憶力がよく、11歳で文芸雑誌や紅葉、露伴らの小説に親しみ、中学時代は図書館に毎日に通って蔵書の大半を読破した。
高松中学を首席で卒業、20歳で入学した東京高等師範(旧東京教育大)は1年余で辞め、次に入った旧制一高では芥川龍之介、山本有三、土屋文明らと同級。その卒業前に京都大学に転入する。卒業後は戯曲や小説を執筆。『真珠夫人』などで流行作家で脚光を浴びた。
一方で文芸春秋の発刊や新進作家の登竜門の芥川賞、直木賞の創設、文芸家協会の発足などを果たす。それらは今も大きな存在感をもって続いている。
物事に無頓着ながら繊細で面倒見がよく、「文壇の大御所」と慕われた菊池寛。その足跡や高松へ寄せる思いを深くした。
(旅行作家)
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