歴史の誇りを秘める四国一の大都会
「松山や秋より高き天主閣」。近代俳句の祖・正岡子規の句のように松山は、松仰ぐほど高い勝山山上に姫路城、和歌山城と並ぶ三大平山城の面影を留める松平氏15万石の城下町である。
維新直前の慶應3年(1867)に、この城下の下級藩士の家に生まれたのが俳人・歌人の正岡常規(子規)。
生誕地は松山市駅前の花園町通りだが、生家跡は石碑だけ。そこで市駅の南側すぐの正宗寺境内に上京する17歳まで住んだ家の子規堂を訪ねた。
玄関を入った左手に子規のために増築した3畳間があり、文机や書物で当時を再現。母の話ではこの部屋に閉じ籠ることが多く、本や紙の散らかし放題。足の踏み場もなかったという。
直筆原稿や遺品、写真などの展示に見入って外に出ると、夏目漱石が「マッチ箱のような」と書いた坊っちゃん列車の客車があった。隣の碑には野球に熱中した子規がベースボールの日本語訳を手掛けたり、広めたとある。「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」の短歌には満塁の高ぶりが伝わる。
子規が漱石と出会ったのは東大予備門。交遊を深めたのは漱石が教師として松山中学に赴任の折、間借りしていた二番町の家(愚陀仏庵)に子規が押し掛け、一緒に暮らした50余日間。建物はなく跡碑のみだが、子規記念博物館には部屋の一部を再現してあった。
松山には何度か帰郷した子規だが、23歳の時、喀血(かっけつ)。以後、重い病に苦しみながら短歌や俳句の道を深めて36年の短い生涯を東京で閉じた。
それから110余年。人口51万余、ビルの林立する四国一の大都市の松山市内に、60基を超す子規の句碑がある。市民の敬意と誇りの表れだろう。
彼が点じた俳句の灯は、高浜虚子や河東碧悟桐、石田波郷ら多くの俳人を生み、全国高校俳句甲子園など松山の町に今なお灯り続けている。
(旅行作家)
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