【特別インタビュー】岩村敬・元国土交通事務次官に聞く


岩村氏

日韓の観光交流、さらに拡大へ

 羽田空港と金浦空港間の日韓航空シャトル便が就航して、この11月30日で20周年を迎える。就航を契機として日韓の人的交流、とりわけ観光交流がさらに盛んになった。就航に尽力した当時の運輸省航空局長で、元国土交通省事務次官、現在は一般財団法人環境優良車普及機構会長の岩村敬氏に就航までの経緯を語っていただいた。

「輸送力の増強は大変重要」首脳会談、閣僚懇談会で動き出す

1998年、韓国が金大中(キム・デジュン)政権になり、日本文化が開放され、日韓の交流が盛んになった。私は、戦後最大の雪解けではなかったかと思う。

 同年に日韓首脳会談が開かれている。その時の日本の首相が小渕恵三さんだ。

 両国は文化交流をするけれど、障害になっていることがあると金大中さんがおっしゃった。航空輸送力の問題だ。2002年のサッカー・ワールドカップ共同開催も控え、輸送力の増強は大変重要であると言われた。

 私は翌年の1999年7月に航空局長に就任したのだが、そのような経緯があって、当時の運輸省が動き出す。

 同年10月に日韓の首脳会談が再度開かれる。これも小渕さんと金大中さんだが、ここでも輸送力増強の話が出る。

 ちょうどこの10月に二階俊博さんが運輸大臣に就任された。就任早々、この首脳会談に続いて済州島で日韓閣僚懇談会が開かれた。そこに二階大臣が出席されて、韓国側は文化体育観光部の朴智元(パク・チウォン)長官と、空港問題を担当している建設交通部長官の2人が出てこられた。

 閣僚同士の会談、会食の後、私は朴長官に呼ばれ、いわゆる2次会、もう1度席を作るが大臣は来てもらえるだろうかと話があり、二階大臣とともに同席をした。韓国だから「爆弾酒」の大変な洗礼だったが(笑い)、これが就航へ実際動き出す大きなきっかけになった。

 ただ、日本側にも韓国側にも課題があり、そう簡単にはいかなかった。

 成田空港は1978年に開港して、滑走路が1本のままだった。増便のしようがない。私の記憶では33カ国ぐらい乗り入れを希望しており、満員で入りようがない状態だった。

 2本目の滑走路を作らなければいけないと、2000年の9月に着工をするのだが、必要な用地がすでに手当されていたので、ワールドカップに間に合った。しかし、あっという間に満杯。

 成田は遠いから羽田に国際線を、とおっしゃる方もいたが、今ある国内線を切って韓国便に切り替えることもできない。

 羽田には当時、もう1本滑走路を作る構想があったが、海上の大工事で完成まで10年以上かかる(2010年に供用)。

 弱ったなと思ったところ、ある人がヒントをくれた。飛行機の着陸間隔を縮めれば、飛行機を今より多く降ろせるのではないかと言う。

 もちろん、やみくもに降ろすわけにはいかないので、実地検証をした。航空会社幹部も役人も管制官も、関係者全員が集まって、ストップウォッチを片手に管制塔で飛行機の着陸状況を調べた。

 それまでは2分間に1機、飛行機を降ろしていた。それを、1分40数秒に1機と、間隔を短縮できることが分かった。たかが十数秒の短縮だが、1日にすると4便から5便多く着陸できる。とにかく飛行機を早く滑走路から出して、その分数多くの飛行機を降ろそうという話になり、それによって枠を生み出した。そして、この枠を韓国便に使うこととした。

 この話が表に出るのが2003年6月。これも日韓首脳会談の場で、この時の首相は小泉純一郎さんだった。韓国の大統領は盧武鉉(ノ・ムヒョン)さん。「羽田・金浦国際便の早期運航をやりましょう」「促進しましょう」とトップ同士で話がついた。もちろん、できるという見通しが立っての総理と大統領の発言だったが、これまでの苦労が実った瞬間だった。

 

知恵で大きな効果生む 大きかった「観光立国宣言」

 韓国側の課題は、2001年に開港を控えていた仁川空港と金浦空港の関係。日本の成田・羽田と同じで、国際線は仁川、国内線は金浦と決めていたから、なぜこの時期に話を戻すようなことをするのかと、相手側はなかなか決断をしなかった。

 当時の日本の国際課長は、韓国にひと月に3回も行った。だが、向こうの課長と話をしても、なかなからちが明かない。韓国側も急に方針を変えられないのだ。

 そこで力になったのが、先ほど触れた文化体育観光部長官の朴智元さんと二階さんのルート。朴さんは金大中大統領の側近。二階さんは総理と関係が近い。言い方は悪いが、「下からやって駄目なら上から」という話になり、韓国側も「分かりました。私たちは金浦を受け入れますので、羽田をしっかりやってください」と、最終的に結論が出た。そこまで行くのに3年以上かかった。

 朴智元さんと二階さん。私はこの2人がシャトル便の土台を作ったと思っている。

 私は実務作業を担い、その後、官房長、審議官時代もこの案件をフォローして、めでたく2003年11月に第1便が飛んだ。

 当時は扇千景さんが国交大臣だった。扇さんも観光が大事だと言っていたが、大きかったのは2003年の観光立国宣言だ。

 ビジネスだけではそんなに人は動かない。日韓シャトル便が始まるまでは、日韓双方合わせて交流が300万人弱。1日7千人ぐらいだ。それが2018年、合わせて1千万人を超えた。1日3万人近くになった。効果は抜群だった。

 今、日本で一番多い外国人のお客さまは韓国人だ。韓国から700万人。日本から韓国に行く数を大きく上回っている。小泉さんが言った観光立国宣言の一つの成功事例だ。

 羽田が国際化したことで、成田が動いた。私の時はB滑走路といっても暫定の短いもの。いまやこれを3500メートルにするし、さらにもう1本作るという。千葉県も重い腰を上げて首都圏の受け入れ容量拡大につながった。

 容量が増え、LCCが来て、韓国の若者も気軽に日本に観光で来られるようになった。これも大きい。運賃が下がり、下がった分を日本で使ってもらえる。日本にとっても韓国にとっても経済面でプラスになっている。

 日韓関係が劇的に変わった。いろいろな事情から、交流が一時減少したこともあるが、金大中大統領が未来志向でいこうとおっしゃったことが大きかった。金大中さんが大統領でなければ、そして小渕さん、二階さん、朴智元さんがいなければ、私はこの日韓シャトル便はできなかったと思う。
日本で「韓流ブーム」が起きた。2004年4月のペ・ヨンジュンの来日。あの時5千人を超える、羽田空港始まって以来の人が集まった。それから20年近くたっても両国の文化交流は継続し、さらに発展している。

 日本の地方も恩恵を受けた。直行便が飛んでいなくても、羽田経由で気軽に地方に来られるようになった。

 羽田・金浦は両国政府が多額の資本投資をしたわけでもなく、ほとんど知恵だけで大きな効果を生んだ。効果はこれからさらに広がるだろう。

【聞き手・観光経済新聞編集長 森田淳】

 

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