今年は明治元(1868)年から満150年の節目の年に当たる。明治維新以降、近代国民国家への第1歩を踏み出した日本は、多岐にわたる近代化への取り組みを行い、国の基本的な形を築き上げてきた。とくに殖産興業の面で、北海道は石炭供給基地として重要な役割を果たした。
1874(明治7)年に北海道開拓使のお雇い外国人B・ライマンが夕張を踏査して石炭鉱脈の存在を報告し、1888(明治21)年に北海道庁の坂市太郎技師が夕張川流域を詳細に再調査して大露頭(鉱脈)を発見し、入植者の募集と試掘が繰り返された。
その後、北炭(北海道炭礦汽船)や三菱石炭鉱業が大規模な産炭を行い、夕張は国内有数の産炭地として活況を誇り、日本の殖産興業のために大きく貢献した。その結果、1960(昭和35)年には人口が約11万7千人を記録した。
ところが1960年代後半以降のエネルギー革命(石炭から石油へ)によって相次いで炭鉱が閉鎖され、炭鉱の斜陽化・衰退が生じる中で、79年に夕張市長に就任した中田鉄治氏は「分不相応の投資をしなければ夕張市は再生しない」と主張して、「炭鉱から観光へ」というスローガンの下で夕張再生を図った。
80年に夕張市石炭博物館、83年に石炭の歴史村、85年にめろん城、88年にロボット大科学館、2002年にマウントレースイスキーリゾート(松下興産から購入)など、国からの資金などを活用して次々に観光施設を開設した。
観光施設投資に伴う放漫経営で累積赤字が生じた結果、07年に財政再建団体に指定された。11年に夕張市長選で当選した鈴木直道氏は当時30歳で全国最年少市長であった。
鈴木市長は財政破綻で市役所職員数が半滅する中で夕張再生に取り組んでいるが厳しい状況が継続されている。最盛期に11万人を超えていた人口は現在8305人で、45年の推計人口は2253人と予測されている。
夕張の厳しい未来が想定される中で、4月末に夕張市石炭博物館がリニューアルオープンした。博物館本館・模擬坑道を全面改修し、30年以上変化がなかった本館展示を一新、市直営から市民団体(NPO炭鉱の記憶推進事業団)の運営に移行した。
この博物館は国内最大級の石炭の博物館で、特に模擬坑道は日本で唯一見学できる炭鉱坑道。夕張の石炭産業は日本の近代化を支えた歴史を有しているために、博物館は市民とともにさまざまな人々の記憶や証言を後生に伝えていく役割を担っている。
かつての「観光施設としての石炭博物館」ではなく、「地域で支え・関わり・学ぶ場としての石炭博物館」を目指している。私もできる限り夕張を訪れることによって、少しでも夕張再生の後押しをしたいと念じている。
(北海道大学観光学高等研究センター特別招聘教授)