今年は明治元(1868)年から満150年の節目の年であり、各地で「明治150年」を祝う行事が行われている。
政府は、明治以降の歩みを次世代に遺す施策(明治期の資料の収集・整理、保存および展示、デジタルアーカイブ化の推進)や明治の精神に学び、さらに飛躍する国に向けた施策(若者、女性および外国人の活躍を取り上げる事業、明治期の技術および文化芸術に触れる機会の充実)などを実施している。
今年はまた、「北海道」と命名されてから150年目でもある。かつて「蝦夷地」と呼ばれていたが、1869(明治2)年に太政官布告によって「北海道」と命名された。その名付け親は松浦武四郎であった。
武四郎は1818年に伊勢国須川村(現在の三重県松阪市)で生まれている。そのため今年は武四郎生誕200年記念の年でもある。武四郎は幕末期にロシアとの国境問題で揺れた蝦夷地を6回も踏査し、地図を作製するとともに克明な探査記録を数多くの日誌類として書き残している。
特に、当時のアイヌ民族の生活状況などを詳細に記録したことはよく知られている。武四郎は広大な蝦夷地を徒歩で踏査しており、各地でアイヌの人々がガイド役として道案内をしたことからアイヌ民族との交流が深まった。
明治維新後に武四郎は蝦夷地に詳しい第一人者として明治政府の開拓使の高官(開拓判官)になり、蝦夷地に代わる新たな地域名称として「北加伊道」を含む6案を提案し、最終的に明治政府は「北海道」と命名した。
武四郎は道名・国郡名選定の功績によって「従五位」に叙せられた。
その後、武四郎は江戸時代にアイヌの人々を苦しめていた「場所請負制度(特権的商人が松前藩や幕府から蝦夷地各場所の経営を請け負った制度)」の廃止を強く訴えたが実現しなかった。その結果、開拓使を批判した武四郎は開拓判官の職を辞し、従五位も返上した。
53歳で官を辞した武四郎はその後に古物収集家として全国的に知られるとともに、晩年には秘境大台ケ原に3年連続して登り、70歳で富士山に登頂するなど、71歳で亡くなるまで旅への情熱は衰えることがなかった。
私が館長を務めている北海道博物館では現在、特別展「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎~見る、集める、伝える」を開催している(8月26日まで)。強い好奇心と情熱のもと、旅に生き、幕末維新という激動の時代の諸相を集めて伝えようとした、その希代の生涯が数多くの資料にもとづいて明らかにされている。
武四郎は自分の目で見たことをさまざまなかたちで発信しており、自分の目で見て考えて行動することの大切さをシンプルに学ぶことができる。
(北海道大学観光学高等研究センター特別招聘教授)