浅草に三社祭が4年ぶりに戻ってきた。コロナ禍でもオンライン配信等、感染対策の工夫をしながら実施されてきたが、今年はコロナ前とほぼ同じ形で開催された。下町浅草が1年で最も活気づき、例年200万人前後が集まる東京の初夏の風物詩である。その歴史をひも解いてみたい。
そもそも浅草寺は、推古天皇36年(西暦628年)創建の東京で一番古いお寺とされている。檜前浜成・武成兄弟が現在の隅田川で漁をしていた際に、一躰の仏像を発見し、何度川に戻しても網にかかることから、持ち帰って土地の長、土師中知に見せたところ、仏像が聖観世音菩薩の尊像であることに気づき、祭ったことが起源とされる。浅草神社は檜前浜成・武成兄弟と土師中知の3人を祭る神社で、三社祭は正和元年(西暦1312年)に、神輿(みこし)を船にのせて隅田川を渡御した船祭が原型とされ、以降700年以上続いている。
初日は、鳶頭木遣り(かしらきやり)や芸妓連の手古舞、組踊り等で編成された「大行列」や、東京都無形文化財指定の「神事びんざさら舞」が奉納される。2日目には「例大祭式典」や「町内神輿連合渡御」で浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約100基が神社境内に参集し、1基ずつおはらいを受けて各町会を渡御する。最終日は、宮神輿3基「一之宮」に土師真中知命、「二之宮」に檜前浜成命、「三之宮」に檜前武成命の御神霊を移して各町渡御を行う。早朝に宮出しの後、日中には氏子各町を3方面に分かれて渡御し、日没後に宮入りで神社境内へ戻る。神幸の途中、神輿を上下左右に振り動かしたり、荒々しく揺さぶったりすることで、神輿に座す神様の「魂振り(たまふり)」を行う。神様の霊威を高め、豊作や豊漁、疫病退散の願いが込められている。
もともとは浅草寺と一体となった祭りであり、「観音祭」または「浅草祭」と呼ばれていたが、神仏習合の見直しにより明治5年からは現在の形式に移行された。また、戦前は家光公より寄進された神輿で構成されていたが、東京大空襲で全て焼失後、昭和20年代に氏子により奉納されたものが現在の神輿である。
今年は久々の再開で大きな熱気に包まれていた。初参加の弊社若手スタッフは音楽フェスと同じような高揚感を感じたとも表現していた。まちに一体感を生む祭りは、改めて欠かせない地域アイデンティティ創出の機会であり、愛着を深める絶好の機会でもある。それが何百年もの間続いているという事実は非常に意義深いことである。多くの若者がこうした歴史的な価値を体感することで、日本の文化に対する誇りが高まっていくこともうれしい。
三社祭の歴史や変遷をひも解くと、大事にすべき信仰という大きな普遍的な要素はぶれずに守りつつも、進化、変化を加えてきた事実は興味深い。今年も浅草神社奉賛会や44の町会、同好会が一緒になり、細かい時間等の決まりごとが徹底され、さらなる進化を遂げていた。
今年は全国各地で本格的に祭りが復活してきている。にぎわいが戻ってくる中で全国の祭りにおいても、このような流れを期待したい。
(地域ブランディング研究所代表取締役)