【私の視点 観光羅針盤 444】壮絶な社会還元事業 石森秀三


 8月に夏季休暇を活用して夫婦で旅行を楽しんだ。今回の旅行の目的は、北海道東部の斗満(とまむ)原野開拓を行った偉人・関寛斎翁の足跡を探ることだった。斗満原野のある陸別町は真冬には最低気温がマイナス30度を下回ることもある「日本一寒い町」。厳寒の地に120年以上前に入植したのが、関寛斎(1830生~1912没)であった。

 寛斎は上総国(千葉県)の貧農出身、3歳で母親と死別し、13歳で儒学者・関俊輔と養子縁組。18歳になった寛斎は蘭学を志して佐倉順天堂に入門し、創設者の蘭学者・佐藤泰然の指導を受け、22歳の時に銚子で医院を開業。銚子で生涯の恩人・浜口梧陵(ヤマサ醤油の7代目経営者、社会慈善事業家)と出会い、浜口の支援によって31歳で長崎留学を決意。当時、長崎ではオランダ海軍軍医のポンペ・ファン・メーデルフォトが日本初の西洋医学の学校兼病院「長崎養生所」を開所していた。寛斎はメーデルフォトから最新の西洋医学を学ぶとともに、貧しい人々には無料で、そして敵味方なく医療行為を施すことを学んだ。

 長崎留学から銚子に戻った後、寛斎は1862年に阿波藩(徳島県)蜂須賀家の典医となり、藩主から深い信頼を得たが6年後に藩主が亡くなり、戊辰戦争が勃発したため、寛斎は官軍の奥羽越列藩同盟討伐隊の病院頭取に任じられた。寛斎は医薬品や食料が不足する中で敵と味方、軍人と住民の分け隔てなく治療に尽くした。

 明治維新の際に官賊の区別なき医療行為は赤十字精神の先駆とされ、西郷隆盛からも高く評価された。そのため「望めば軍医総監男爵も造作ない」と評されたが、寛斎は1870年に徳島に戻り、町医者になった。その後、徳島で貧しい人には無料で診療を施し、節約・質素を重んじながら、32年間の穏やかな生活を過ごした。その間に無料で種痘を施し、助けられた人々は関寛斎を「関大明神」としてお札を神棚に飾ったといわれている。

 徳島で充実した暮らしをおくっていた寛斎は1902年に72歳になって、築き上げた財産を社会還元するために全財産を投じて斗満原野の開拓に挑戦した。直接的には寛斎の四男が札幌農学校卒業後に斗満開拓に着手しており、その支援でもあった。

 ところが四男は札幌農学校で学んだ米国式の大規模農場経営を目指していたのに対して、寛斎は小作に土地を分け与えて自作農育成を行う理想を抱いていた。最終的に10年間に及ぶ厳寒の地での開拓疲労と四男との確執などのために1912年に服毒自殺に至った。寛斎の壮絶な人生を知れば知るほど心の痛みを禁じ得ない。

 寛斎の辞世は「諸ともに契りし事も半ばにて斗満の里に消ゆるこの身は」であった。また寛斎と妻あいの墓碑には「我身をば 焼くな埋むなそのままに 斗満の原の草木肥せよ」と刻まれている。

 寛斎の壮絶な社会還元事業は頓挫したわけではなく、寛斎の農場は後に開放され、陸別町では現在65戸の農家が畑作や酪農を営んでおり、厳寒の地で北海道開拓の理想を追求した寛斎の夢は確実にかなったといえる。寛斎翁の壮絶な人生を想うと、わが人生の至らなさにただただ消え入りたいのみである。

(北海道大学観光学高等研究センター特別招聘教授)

 

 
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