【観光立国・その夢と現実 51】旅館創業者の精神性8 小原健史


 このコラムは、筆者の父・小原嘉登次の旅館経営の心情や軌跡について記載しているが…。セスナ機を使った200万枚の空中宣伝ビラは、一躍、嬉野温泉の名を全国に知らしめたが、しかし、昭和30年前後は嬉野温泉では年間の繁閑の差が激しく、今でこそ夏季は全国的に夏休みのオンシーズンであるものの、当時は季節的な暑さと温泉の熱いイメージが重なってか平日は閑古鳥が鳴く日が多かった。

 もともと材木商であった父嘉登次は、今や旅館事業家として前のめりになり嬉野温泉の名を天下に轟(とどろ)かせるべく寝る間も惜しむように奔走していた。その頃の旅館で働く従業員は、およそ「板前」と「仲居」そして「番頭」の3種類に大別できたのであるが、仲居たちの収入は定額の月給制ではなく「奉仕料」という歩合制であった。歩合制だからお客さまが少ない日には収入がほとんど無く、多い時にはお客さまに寄り添い長時間に及ぶ飲食のサービスを提供して、相当額の奉仕料を得ることができた。しかし、夏場は、この奉仕料がガクンと落ちる。そのことに困りいら立つ仲居たちが嘉登次に向けて「旦那さん、夏場はお客さまが少ないので、私たちの収入も少なくて干上がりますよ!」とか、「何とか、夏場にお客さまば増やしてほしか!」と要求する。それらの女性軍の声を聴いて嘉登次は黙ってはおれない、何とか夏枯れを解消したいと、ねじり鉢巻きで「夏の嬉野温泉の客寄せ策の妙案はないか?」と考えるが、なかなかアイデアは浮かばない。

 ある日、熱くなった頭を冷やすべく嘉登次は自分が経営する映画館に入った。スクリーンでは、しばらく若い男女の恋物語が展開していたが、突然総天然色の打ち上げ花火がスクリーン一杯にごう音とともに広がった。その瞬間、嘉登次は「これだ! 花火だ! 打ち上げ花火だ!」と映画館の中で大声で叫んだ。映画館を飛び出ると、早速、支配人や番頭を集め花火屋の交渉や許認可の交渉に入った。この花火大会は「和多屋まつり花火大会」として瞬く間に有名になり、毎年8月17日に開催され、昭和27年から50年間の永きにわたり続いた。嬉野近郊の住民は、旧盆には帰省せず数日ずらして17日のこの花火大会の夜に故郷の実家で家族みんなで集まるようになった。それは、地域の皆さんは当然無料で観覧できるし嬉野温泉の全ての旅館からも観覧できたので大きな評判を呼んで、期間眼定的ではあったものの8月の中旬から下旬においては次第にお客さまの入り込みが増えていった。

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