「旅館創業者の精神性」と題して父・嘉登次の旅館の創業から事業展開について記述している。
嬉野温泉の10室の小規模旅館の経営でその醍醐味（だいごみ）を知った嘉登次は旅館業に専念してさまざまなアイデアを駆使し100室の大規模旅館にするのに10年も必要としないほど積極的であった。旅館の経営は嬉野温泉にとどまらず佐賀県内の佐賀市郊外の川上峡や武雄温泉にも及び、息子たちに現場の経営を任せながら旅館ホテルの事業を展開した。
特に武雄温泉の御船山観光ホテルは、鍋島藩の御用邸を取り巻く15万坪の庭園で桜とつつじの名所でもあったが、その買収に関する経緯がすさまじい。鍋島藩から炭鉱経営者に渡っていた公園敷地を武雄市で購入するかどうかの市議会の審議がわずか1票差で否決されると、嘉登次は間髪を入れずに買収の意思を表明し金融機関との交渉を開始した。その金融の取り付け方が絶妙で当初あえて県外の当時の第一地銀と県内の第二地銀の協調融資をもくろんだが、第一地銀の方がプライドか？断る名目か？「第二地銀との協調融資は困る」と言われると、作戦変更し、あえてその言葉をそのまま第二地銀に伝えた。それを聞いた第二地銀のトップが怒って「なんだ！ うちを馬鹿にするのか！ わかった全額うちが融資する！」と急きょ、県内の第二地銀で全額融資が決定した。
日頃の付き合いの中で第二地銀のトップの気性を見知っていた嘉登次の作戦変更は【機を見るに敏】を絵に描いたような交渉術であった。さらに嬉野温泉の2軒目の旅館「和楽園」建設の融資は、私自身が担当したが、まさに商売人の根性を叩き込まれた“事件”でもあった。
当時の父嘉登次は旅館経営のかたわら佐賀県議会議員を11期44年つとめ、そのうち、県議会議長を26年間続投していたが、他県では類をみない超長期の議長であった。昭和38年ごろの第1次オイルショックの前兆的な情報が佐賀県にも伝わると、父は和楽園の建設を少しでも安く仕上げるために私に命じた。「健史、以前に言っていた新しい旅館建設のことだが建設資材が高騰するとの情報があるので、既に銀行の頭取とは話がついているから、一日も早く工事契約を結び金額を押さえたい。おまえ、すぐに支店長に会って明日1億円作ってこい！」と信じられない指示である。減らず口の私はすぐに「会長、明日1億は無理ですよ。先日わずか300万の融資を受けるのにもいろいろ書類をそろえて云々（うんぬん）」と言った途端、父の雷が落ちた。「なに！ 私と頭取で話がついているのに、なんでおまえがグダグダ言うのか！ いいから支店長に会って1億作ってこい！」と顔つきが極めて厳しい。私は親父がこの顔つきの時は言われる通りに従うのが身のためだと思い返した。
すぐに支店長に会いに行くが、支店長いわく「副社長、今日はまた急に何の用かな？」。大学出たての27歳の私は交渉の術を知らない。「はい、父が嬉野温泉にもう1軒旅館を造ると言っていますが…」。その言葉に被せるように「ああ、その話は頭取から連絡があった」との発言。ホッとした私は「それで、県庁筋の情報で建設資材はじめさまざまなモノの値段が高騰しそうで一日も早く契約をしたいとの会長の考えです」と次第に声が細る。強烈な個性の開拓型の支店長は「副社長、おれは今日は忙しい。アポなしで来て迷惑な！ それで会長さんは何と言われてる？」。頃も良しと私から「はい、父の工事のやり方は、契約時、中間出来高、そして竣工時の3回払いだそうで、一日も早く契約で工事金額を低く抑えたいので、最初の契約時の資金をお願いしてこいとのことでした」。支店長は次第にキツイ目つきになって「はあ、またあまりにも急な話やねえ！ で、いつ、いくら必要か？」「はい、それが…」「はっきり言わんか！」。私は意を決して言った。「総工事費が3億円、その契約金が1億円、できれば明日お借りできないかと…」。途端に「きさま、なんば言いよるか！」。支店長の怒声が店内に鳴り響いた。
（元全旅連会長）
