旅館・ホテル業のM&A市場は、売り手に対して買い手の数が圧倒的に多いという、非常にアンバランスな状況にある。国内外のホテルチェーンや不動産投資家、宿泊業への新規参入を検討している多種多様な事業者が、M&A仲介会社や引き継ぎ支援機関に買い手として登録している。一方で、買い手の希望に合致する売り手の数は極めて少ないのが実情である。そのため、既存の旅館・ホテルに対して仲介会社から売却を強引に促すような営業活動が社会問題化している。
中小企業庁もこの状況に対して、「M&A専門業者(仲介者・FA)による、契約締結の意思がない旨が示されているにもかかわらず継続される広告・営業、またはM&Aの成立可能性や条件に関する虚偽や誤解を招く広告・営業など、不適切な行為が散見される」として注意喚起を行っている。また、「譲り渡し側の経営者保証を引き受けないまま、譲り渡し側の現預金等の資産を移行し、支払いに問題を生じさせた結果、倒産に至らせるような行為を複数回にわたって実施する不適切な譲り受け側が存在する」といった報告もある。
旅館・ホテルのM&Aでは、売り手をだまそうとする事例が珍しくない。その影響は、売り手のみならず従業員や取引先、地域社会にも深刻な打撃を与える。特に地方の老舗旅館では、後継者不足や経営難を背景にM&Aを選択するケースが多いが、買い手が信頼に足るものか慎重に見極めることが不可欠である。
初見では魅力的に映る買い手にだまされるケースは少なくない。例えば、ある地方の老舗旅館では、後継者不在の中、東京の新興ホテル運営会社から買収の提案を受けた。この会社は「地域に密着した再生計画を実施し、地域経済を活性化させる」と約束し、経営者はその計画に期待を寄せた。しかし、売買契約が成立すると、約束していたリニューアル計画を実行せず、延期を繰り返した。さらに、地元業者との取引を事前の説明もなく一方的に打ち切った。売り手側の経営者保証を引き受けることなく現預金を関連会社に移転するなどの不正行為も行われた。
この結果、地元社会との信頼関係が崩れ、旅館の評判は大きく傷ついた。最終的に買い手は、施設の魅力を高めるどころか、むしろ悪化した状態で旅館を海外投資家へ短期転売するに至った。この事例は極端なケースであるが、「提案時の話と全然違う対応をされた」という苦情は多い。魅力的な提案ほど慎重に商談を進めることをお勧めする。
(アルファコンサルティング代表取締役)
(観光経済新聞12月9日号掲載コラム)