行燈旅館には毎年春にはアメリカ、オーストラリアから先生と建築家志望の学生グループ、秋にはドイツからの建築家グループが決まって泊まりに来てくれる。このように定期的に来てくださるお客さまがいたから今日まで働いてこられたのだといつも感謝している。
毎年決まってこれらのグループは東京、そして京都へ行く。やはり目まぐるしく変わる東京の様子と京都に脈々と続く歴史的な建築物は対比しやすく、日本の建築様式を理解するのに両都市ともうってつけと言えるのだろう。
毎年、ツアーの日程、場所、宿泊先などを聞くのも私の楽しみにもなっている。その中で昨年、ドイツの建築家グループが1カ所新たに加えた場所がある。「江之浦測候所」だ。この場所は東京から京都へ向かう新幹線の途中駅、小田原駅で東海道本線に乗り継ぎ「根府川」で降りてからバスで10分の場所だ。片道小1時間。寄り道して京都へ行っても十分間に合う場所にある。初めて聞いた時には「測候所」という無機質な響きにあまり興味を持たなかったのだが、このグループの京都での宿泊先の女将さんが行燈旅館に宿泊してくださった折、帰りに江之浦測候所に立ち寄ることを聞き、がぜん興味が湧いてきた。
測候所のチケットは日時指定の予約、入れ替え制である。事前にこの小田原文化財団の情報をインターネット、YouTubeで仕入れた。そこでやっとなぜ「測候所」と付けたのか理解ができたのと同時に、とても行くことが楽しみになってきた。
当日は快晴、江之浦の高台から見る海もキラキラ光っていて美しく、海、竹林、ミカン畑、建築群が不思議な調和を作り出していた。エントランスには室町時代に建てられた「明月門」があり、冬晴れの中、人影もまばらな建築物が点在する施設をゆっくり歩きながら正味1時間半、気持ち良く過ごすことができた。
中でも特に私の気を引いたのは、茶室「雨聴天」の前に設けられた光学ガラスの沓脱石(くつぬぎいし)だ。とてもしっくりと美しくそこにあった。情報によると設立者杉本博司は昔、骨董(こっとう)商もしていて、今でもかなりの収集家だそうだ。目利きの手にかかると品物の一つ一つがさらに美しく見えるものだ。東京から片道小1時間でこのように美しいものが点在する場所が存在することは、日本人としてとても誇らしいと思った。熱海から小田原へ、小田原から箱根へ行くのもよし、私の中のお客さまへのオススメ「ワンデートリップ」のリストの中に日光、鎌倉などと一緒に加えたい場所の一つとなった。
余談だが、測候所の帰りがけの玄関前で杉本博司ご本人に偶然お会いできた。思わず口から大きな声で「杉本先生」と、叫んでしまった。先生は優しく笑いながら答えてくださり少しだけお話しするチャンスに巡り合えた。素敵な1日の最後により幸せな気分に浸ることができた最高の1日となった。次回は夏の真っ盛りに行ってみたいと思った。