土門拳著の「日本の仏像(小学館)」を読んでいたら、奈良中宮寺の「菩薩半跏(ぼさつはんか)像」について、「頬にあてられている右手の細くたおやかな指先は色っぽく、官能的といえるほどしなやかな表現を与えている。ぼくはこの観音像くらい、女、それも豊かな母性を感じさせる仏像をほかに知らない」との記述があった。中宮寺を訪ねたのはいつのことだったろう。初めて目の当たりにしたときのことを思い出していたら、ふと京都にある広隆寺の「弥勒(みろく)菩薩半跏思惟(しゅい)像」にも思いが及んだ。京都に行くとなぜか会いたくなる。口元に穏やかなほほ笑みを浮かべているような表情はいつまで見ていても見飽きない。像の前に正座して静かに眺めている人々も多く見かける。
どちらも仏教伝来間もない飛鳥時代を代表する国宝彫刻。右足を左足の上に乗せ、右手をそっと頬に当てて思索にふけるポーズは光背の有無を除けばほとんど同じで、かすかにほほ笑んだ表情まで共通している。中宮寺の半跏像は世界三大微笑の一つといわれていると紹介されていることも思い出した。
そして、突然この2体の半跏像を同日に訪ね見たいと思いつき、翌朝一番の新幹線に飛び乗った。京都に行くときには日帰り旅。仕事に疲れたときに突然思い立って向かってしまう。いつも利用している新横浜から2駅、2時間ほどで、文化遺産や古都の表情と身近にふれあえることも理由なのかもしれない。
まず向かったのは京都太秦。その地名が秦国から渡来して帰化した有力氏族「秦(はた)」氏にちなむことは意外と知られていない。中宮寺は聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために建立されたと伝えられる日本最古の尼寺だ。
「弥勒菩薩半跏思惟像」は、秦氏が聖徳太子から賜ったものという。物思いにふけるその表情はどこか西域風だが、庶民的で人を引き寄せるようなところが愛されている理由だと寺の方が教えてくれた。
その顔立ちを目に刻みつつ、午後に向かった中宮寺で出会った「菩薩半跏像」は、光の加減なのか、凜(りん)とした表情で迎えてくれた。顔立ちは日本の理想の女性ともいわれているが、人を寄せ付けない気高い雰囲気というべきか。近くで見るよりも遠目から眺めた方が存在感が際立つ気がする。2体とはそれぞれ1時間ずつ向かい合ったが、歴史をもっと調べてから来ればよかったという思いもあった。それが旅の醍醐味(だいごみ)なのだと改めて感じ入った。京都に限らず、日本は文化遺産の宝庫。コロナとうまくつきあいながら、次は宿泊込みで街々を訪ねてみたい。温泉も美食も欲ばりつつ。