東日本大震災からの復興が残したもの 戸羽 太・前陸前高田市長に聞く


高田松原津波復興祈念公園「奇跡の一本松」をバックに

震災前より良いまちに 「減災」へ日頃から備えを

 観光経済新聞、東京交通新聞、塗料報知、農村ニュース、ハウジング・トリビューンの専門5紙誌では、防災・復興をテーマとした連携企画「地域が創る復興・活性化の未来図~大災害の教訓から」を展開中です。過去の大規模災害を取り上げ、専門家へのインタビューを通じ、地域・産業振興のあり方を探ります。第3回は2011年3月11日の「東日本大震災」。岩手県陸前高田市の前市長で、現在はコンサルティング業務などを手掛けるオフィスTOBA社長の戸羽太氏に話を聞きました。併せて、各紙誌の切り口で、被災当時の状況や最新の動きをレポートします。

 ――市長就任後4週間で東日本大震災が発生。戸羽さん自身も大変な被害に遭われた。

 われわれの地域では「宮城県沖地震」が30年以内に99%の確率で起きると、今の南海トラフのように予測されていた。市民の皆さんが意識をし、役所も当然意識をしていた。訓練もして、「いつ来ても大丈夫」くらいの準備をしていた。

 しかし、あのような大きな津波が来るとは予測していなかった。皆が備えていたのだが、それとは違う想定外の規模のものが来てしまい、どうにもならなかったというのが今回の震災だった。

 地震発生後、40~50分後ぐらいに津波が来て、われわれ役所の人間は市役所の中に閉じ込められた。建物は一部に4階部分がある3階建て。津波は3階まで来た。私は屋上にあったペントハウスのような部屋に引き上げてもらい、それで助かった。

 元々は、高さ50センチぐらいの津波しか来ない想定だった。市は津波が来たら山の高台に逃げようとのルールを作り、訓練もしていたのだが、高さ50センチの津波のために、なんでお年寄りまで山に逃げなければならないのだと声が上がり、当時街の真ん中にあった3階建ての市民会館に避難しようとルールが変わった。

 そう訓練をしていたので、津波が起きた時、市民の皆さんは素早く市民会館に逃げてくださったのだが、実際に来た津波は15メートルで、3階建ての建物は水没する高さだった。そこに逃げた人々は皆、犠牲になった。

 市の人口の7・7%が犠牲になった。住宅の約5500棟が全壊。もともと8500世帯ぐらいだったので、半分以上が全壊となった。

 ――市が真っ先に手掛けたことは。

 とにかく人命救助だと、被害者の捜索。ただ、当市に限らず、沿岸部全てが被害を受けているわけだから、内陸の津波が来ていないエリアにお願いするしかなかった。沿岸の道路が使えなくなったため、内陸を走る縦軸の道路と沿岸の道路をつなぐ横軸の道を造る「くしの歯作戦」を国、県に行ってもらった。

 死亡届の受け付けにも追われた。用紙が足りず、隣の住田町でコピーをさせてもらい、受け付けをした。役所が機能していないので、高台にある学校給食センターで行っていた。

 ――復興への計画について。

 まず、市民の皆さんが二度と津波で亡くなることがないまちにすることが大前提だった。
 津波は過去に何度も来て、そのたびに対策を講じていたわけだが、また同じことを繰り返すわけにはいかない、国や県が許す範囲でできることは何でもやろうと、かさ上げといういまだかつてないことを行った。

 そして、地方創生という言葉が震災前から使われていたが、新たなまちをつくる以上、ただまちを元に戻す「復旧」ではなく、前からあった課題についても解決に向けて前進させること。前よりも良いまちにすること。特に若い人たちが将来に希望の持てる、可能性を感じられるまちにしなければならないと意識した。

 当時、家もお店も流されてしまった商店主の人たちは皆、泣いていた。家も店もなくなり、借金しか残っていない。私も一生懸命励ましたが、「あなたは商売をしたことがあるのか」「俺たちの気持ちが分かるはずがない」と言われ、何も言えなくなってしまった。

 「俺たちが動いたら、もっとでかいことができるのではないか」と、民間の人たちに思ってもらえるようなことをやろうと思った。そこで連れてきたのがワタミの創業者、渡邉美樹さんだった。復興を支援していただくために、市の参与に就任いただいた。

 渡邉さんは幼少期に親の会社が倒産して苦労をされたが、人生逆転をと運送会社で働いて資金をため、一代で事業を築き上げた。その話を聞くだけでも皆が励まされ、やる気を起こさせるのではないかと思った。

 まちがぐしゃぐしゃでがれきがいっぱいで水も電気も通っていない時に、「お祭りをやろう」と渡邉さんが言った。多くの人が反対をしたが、「俺一人でもやる」と。そしてもともとあった小学校の校庭に仮設の店を並べたりして会場を造った。震災から半年もたたない夏の暑い頃だった。すると、商店街にあった居酒屋の常連客が来て、「お前も来ていたのか」「ここの焼き鳥は最高だったよな」みたいな話をして、そのうちに「時間はかかるかもしれないが、お互い頑張ろう」と皆が思うようになった。

 サッカーJリーグ、フロンターレ川崎ともあるご縁で付き合いが始まった。コロナの前までは毎年選手が来て、試合をしてくれた。サッカーファンや子どもたちが喜ぶだけではなく、こんな一流の人たちが来るまちなのだと、皆が思ってくれた。東京や仙台に出なくても、このまちにいてもいろいろな可能性があるということを、そこでも感じてもらえた。
 復興に向けての絶対的な問題は、どこの地方でも同じだと思うが、プレイヤーが足りないことだ。アイデアまでは出せる。でも、やる人がいない。陸前高田でもフィールドはできたが、まだまだ私たちが思い描いている形にはなっていない。

 震災前の人口がおよそ2万4千人。今は1万7千人ぐらいに減っている。

 典型的なのは、お父さんが亡くなり、お母さんの実家に身を寄せるしかなくなったケース。プロ野球の佐々木朗希選手もそうだった。一時的に内陸に避難をしている家族も、お父さんがそこで仕事を見つけて陸前高田に戻ってこないケースもある。

 ――戸羽さんが市長を志したきっかけは。

 もともと矢沢永吉さんのファン。バンドマンになりたくて、高校を卒業して、矢沢永吉さんと同じようにアメリカに渡った。その時、障害者の人たちが、当時の日本と違い、いきいきと社会参加をしていた。それにすごく衝撃を受けた。

 日本にこんな所はない。各県に2カ所ずつでもこういう自治体があれば、もっと日本は良くなる。陸前高田をそんなまちにしたいと思ったのが理由の一つだ。

 震災からの復興計画では、障害者に優しいまちづくりを最上位でうたった。ゼロからまちをつくるから、完璧につくれるのではないかと思った。

 歩道と車道の段差や施設の扉の幅など。障害を抱える当事者を呼び、プランを作った。自身も障害を抱えるバリアフリー関連の事業を手掛ける株式会社ミライロの垣内俊哉さんに話を聞いた。

 新たに建てられた店は、90%以上がスロープ付きだ。筆談ボードはほぼ全てが置いている。障害者の方々の共同作業所が加盟する「きょうされん」の全国大会も、都市部以外で初めて開かれた。参加した皆さんから「僕たちのまちもこうだったらいいのに」と言ってくださった。

 ――各地で災害が多発している。市民が安全を確保するために備えるべきことは。

 私は「防災」とは言わず、「減災」と言うことにしている。明日、台風が来ることは予測できるが、われわれの力でコースを移動させることはできない。来ることは仕方がない。だから、窓ガラスが割れて飛び散らないようにテープを貼りましょう、室内に水が入らないように土のうを積みましょうと、あらかじめできることをする。

 後悔を減らすことだ。起こり得ることを考え、先回りして準備をする。想像する癖をつけておくことだ。

 観光のお客さんは、避難場所や非常口の確認。海に近い所は津波注意報が出た時の避難場所への誘導看板があちこちに立っている。そこを確認したい。普段でも言えるのだが、家族との連絡方法をどうするかも決めておきたい。

 ――陸前高田の魅力について一言。

 青空が似合うまち、気持ちが前向きになるまちだ。震災で大きな被害を受けたが、皆があきらめずに力を合わせてここまで復興した。

 都会でちょっと疲れたという時、ぜひふらっとでも来ていただきたい。「俺もいっぱい悩みがあるけど、明日から頑張ろう」と思っていただける。パワースポットとまではいかないが、「止まり木のようなまちになればいい」と皆で言っている。われわれは勝手に「岩手の湘南」と言っているが(笑い)、岩手県で最大の海水浴場がある。スポーツや芸術・文化の人も多く滞在している。食べ物はおいしいし、住んでいる人間からしてもいいまちだと思う。


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