1974年にフォークグループ「かぐや姫」が発表した「なごり雪」は、東京から故郷に帰る列車ホームでの別れがモチーフになっている。歌手のイルカさんが1975年に歌ったカバーが大ヒットしたが、実際は作詞作曲を手掛けた伊勢正三さんの故郷である、大分県津久見市のJR津久見駅がモチーフだったという。伊勢さんがシンセサイザーでアレンジを手掛けた「なごり雪」が2009年10月からメロディに採用された。
きっかけは当時の駅長、後藤静昭さんがファンで、伊勢さんを知る市役所職員ほか地域の皆さんを通じて打診、説得には2年を費やした。「九州では当時、民謡の駅のメロディはありましたが、歌謡曲はなく、何とか実現させたいという思いが通じました」。
当初はレコード音源を使うはずだったが、伊勢さんの意向でアレンジを変更、音源が到着したのは2009年10月のお披露目セレモニーの直前で、メッセージも寄せられた。「ホームと言えば 心の奥深く いつもこの景色があるのです」。感動した後藤さんは、このメッセージを刻んだ石碑=写真=をJR九州の負担で制作し、翌2010年3月、駅前に設置した。津久見で産出する石灰石を利用した。
津久見市には鉱山があり、石灰石やセメントが基幹産業である一方、自然豊かで温暖で、ミカンなどかんきつ類が豊富な、ごく普通の地方都市である。伊勢さんはミュージシャンとしての成功を目指し上京、長く故郷とは距離を置いていた。その心境に変化が起きたのは近年のことだ。首都圏の自宅スタジオにあった音楽に関する資料、手書きの楽譜や歌詞、ステージ衣装、楽器のほか、趣味の釣り道具などを津久見市の篤志家に寄贈。トラック数台分にもなった寄贈品を基にした資料館「伊勢正三ミュージアム海風音楽庵」が2022年7月、津久見駅から徒歩10分ほどの場所に開館した。築100年近い古民家を活用した。
運営は伊勢さんの同級生や後輩で結成された「なごり雪の会」が手掛けている。週末のみの開館だが県外からの見学が8割以上を占め、60代以上のフォークソング世代から10代の若者層まで幅広い。事務局の河村和彦さんは地元テレビ局出身で、伊勢さんの幼なじみでもある。「地方でもギターや音楽に関心のある子供たちはたくさんいる。プロが作った『本物』を直に見られる機会を提供したいと伊勢さんは考えたようです。衣装は『使う時に送って』と言われています(笑)」と河村さん。
昨年12月には津久見市内で開催された伊勢さんのコンサートに地元の小中学生たちがゲスト出演し、一緒に「なごり雪」を演奏した。市民の間には「これといって特徴のなかった津久見市に誇れるものができてうれしい」といった声があがっている。
※元産経新聞経済部記者、メディア・コンサルタント、大学研究員。「乗り鉄」から鉄道研究家への道を目指している。著書に「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」(世界文化社)など。